Kommentar 2013 Nr. 1

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Franz I. Stephan

 


(Franz Stephan von Lothringen)

 


Teil 1

 

 

 

 

 

 

 

 Franz Stephan von Lothringen (1708-1765) は公爵 Leopold Joseph von Lothringen (1679-1729) と、その配偶者 Élisabeth Charlotte de Bourbon-Orléans (1676-1744) との間の第 9 子 4 男として、1708 年 12 月 8 日に Nancy に於いて生まれた。
母方の祖母の Eleonore von Österreich (1653–1697) を通して Franz Stephan は、神聖 Roma 帝国皇帝 Ferdinand III. (1608-1657、皇帝在位は 1637-) の曾孫、また母親を通して France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-) の曾孫に当たり、生まれた時より Habsburg 家と Bourbon 家の両方の血統を受け継いでいた。

 Franz Stephan は 1 歳年長の兄 Leopold Clemens Karl von Lothringen (1707-1723) と共に、比較的早くから軍事訓練を受けており、1716 年にはその年に皇帝によって創設された „Regiment Jung-Lothringen zu Fuß” (後の k. u. k. Mährisches Infanterieregiment „Erzherzog Karl” Nr. 3) の名誉連隊長に任命され、1726 年迄その職を務める。

 1723 年 4 月 25 日に兄 Leopold Clemens Karl が 16 歳の若さで亡くなると、Franz Stephan は繰り上がって継承権のある王子となり、その同じ年に当時の神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VI. (1685-1740、皇帝在位 1711-) の Bohemia 王に即位する戴冠式に出席する為に Praha に行く。
そこで同年 8 月 10 日に皇帝 Karl VI. に初めて対面したが、 Praha 滞在中にはまた皇妃の Elisabeth Christine von Braunschweig-Wolfenbüttel (1691-1750) や、未だ小さいその 2 人の娘達に会う機会もあり、その滞在の最後には皇帝の長女の Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) との結婚が、親族間で非公式に取り決められた。

 翌 1724 年に Franz Stephan は帝国首都 Wien の Habsburg の宮廷に移り、そこで更なる教育と社交訓練の機会が与えられる事となった。男子に恵まれる事の無かった皇帝 Karl VI. は、Franz Stephan を実子の様に可愛がったと伝えられている。その結果 Franz Stephan は皇帝の狩りには常に同行する様になり、また宮廷の祝祭や舞踏会等の催物にも若くして参加した。
未だ 15 という歳からの故郷から遠く離れた Wien での暮らしは、Franz Stephan にとっては快適なものであった様だが、5 年間の Wien 滞在の後 1729 年になると父親が亡くなり、 Franz Stephan は Wien を後にして故郷の Nancy に帰らざるを得なくなる。
同年故郷で父親の後を継ぎ、 François III. として、Lothringen と Bar の公爵 (1729–1736) となる。

 しかし 1733 年に Poland 王位継承戦争が勃発すると、皇帝 Karl VI. は嘗ての Poland 国王で、今回国王 August II. (1670-1733, Poland 国王在位は 1697-1704 [王位放棄への署名は 1706]、及び 1709 (復位) -1733) の死亡を機に、再度王位を請求している Stanislaus I. Leszczyński (1677-1766, Poland 国王在位:1704-1709) に、Poland 王位への復位を諦めさせる代償として Lothringen (仏名 Lorraine) と Bar 公国を与えるつもりで、その元来の世襲領地領有権の放棄を Franz Stephan に求めてきた。これを Franz Stephan が拒んだ場合には、嘗て Praha で非公式に取り決めてあった Karl VI. の長女、Maria Theresia との結婚は叶わないと迫られ、Franz Stephan はかなり苦しんだ挙句にこれを受け入れた。

 Stanislaus I. Leszczyński は France 国王 Louis XV. (1710-1774) の王妃 Maria Leszczyńska (1703-1768) の父親であり、その没年の 1766 年迄この Poland 継承戦争によって手に入れた Lothringen と Bar の公爵として在位したが、その実際の統治は France 王国の管理下に置かれ、 Stanislaus の没後この Lothringen と Bar 公国は、公式に France 王国に併合されて現在に迄至っている。

 一方 1737 年に Toscana 大公 Gian Gastone de’Medici (1671-1737) が亡くなると、彼には子供が無くそれ迄 300 年余り続いた Medici 家による支配が途絶える。
Toscana 大公国 は、Lothringen と Bar 公国を殆ど強制的に奪われた Franz Stephan にその代償として与えられ、 Franz Stephan は Francesco II. として Toscana 大公 (1737–1765) に即位する。

 

 


この先は次回
»Franz I. Stephan Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 2]
へ続く

 

 


Poland 王位継承戦争
に関しては
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 1]
を参照

 

 


上部の写真:


Franz I. Stephan の
肖像画

 

 

 

 

 

 

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