Kommentar 2013 Nr. 2

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Franz I. Stephan

 


(Franz Stephan von Lothringen)

 


Teil 2

 

 

 

 

 

 

 


»Franz I. Stephan Teil 1«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 1]
より続く

 


Beethoven が Wien に出る前に
Bonn で仕えていた領主
Köln 選帝侯 Maxmilian Franz (1756-1801)
の父親
神聖 Roma 帝国皇帝 Franz I. Stephan
について

 

 1736 年 2 月 12 日に Franz Stephan von Lothringen (1708-1765) と、神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VI. (1685-1740, 皇帝在位 1711-) の長女、Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) との結婚式が Wien に於いて執り行われた。
この結婚式の時点では、Toscana 公国を治める最後の大公 Gian Gastone de’Medici (1671-1737) が死んだ後には、Toscana 公国が Franz Stephan に与えられるという事が約束されていたとはいえ、故国の本来の領地である Lothringen と Bar 公国は既に Franz Stephan から強制的に奪われていて、形式的には嘗ての Poland 国王 Stanislaus I. Leszczyński (1677-1766, 在位 1704-1709) に与えられたが、実質的には France 王国の領地になっており、この時点での Franz Stephan の身分は領地の無い、公爵という肩書きだけを保持しているという大変厳しいものであった。

 結婚式当日、新郎新婦の 2 人は当然並んで座る事が出来たが、翌日からは早速 2 人の階級上の位置に従って、Franz Stephan は皇帝の長女 Maria Theresia からすっかり離された、下位の座席に座らされる事になる。
翌 1737 年の 7 月 9 日に、後継者のいなかった Gian Gastone de’Medici が亡くなって Medici の家系が途絶えると、漸く Franz Stephan は事前の約束通りその領地を譲り受けて、Francesco II. として Toscana の大公 (在位 1737–1765) の地位を手にする事が出来た。

 Franz Stephan の祖父 Karl V. Leopold von Lothringen (1643-1690) は、神聖 Roma 帝国軍の将軍として 1683 年の Osmân 帝国による第 2 次 Wien 包囲戦で大活躍し、Wien を救った英雄として広く知られている。またその後 1686 年には Hungary 王国の Buda を攻略し、翌 1687 年には 145 年間占領されていた Hungary 王国と Slavonia 地方 (現在の Croatia 共和国東部) 及び Transylvania 地方 (現在の România 中部) を、Osmân 帝国から奪還して解放するという大きな軍事的功績を挙げて、英雄として Wien では語られていた。

 その祖父 Karl V. Leopold と同様に Franz Stephan も皇帝軍を率いて、Russia・Austria 対 Osmân 帝国の戦争では、1737 年に Balkan 半島の Osmân 帝国領に進軍する。しかし国境を越えて当初は戦果が上がったもののその後苦戦し、その年の年末には Serbia からの退却を余儀なくされる。
またその翌年にももう一度 Franz Stephan は Balkan 半島での対 Osmân 帝国軍を率いたが、軍隊の改革を行ってより攻撃力の強まった Osmân 帝国軍に対して守勢に立たされ続け、祖父の様に軍人として大きな功績を挙げる迄には至らなかった。

 1740 年 10 月 20 日に神聖 Roam 帝国皇帝 Karl VI. が亡くなる。
Karl VI. には男子の後継者がいなかったので、1713 年に Karl VI. が発して帝国の諸侯に承認させておいた国本勅諚 (国事詔書、Pragmatische Sanktion) に従って、その長女の Maria Theresia が Habsburg 家の相続承継をする事となった。
Karl VI. は Pragmatische Sanktion の公布後の 1725 年から 1730 年に掛けて、将来のこれに対する異議申し立てに備えて、諸外国からの承認を取り付けてはいたが、早くも 1740 年にこの Pragmatische Sanktion が実際に適用される事になると、Bayern 選帝侯 Karl I. (1697-1745) と Sachsen 選帝侯 Friedrich August II. (1696-1763) がそれぞれ、Pragmatische Sanktion の有効性に異議を唱え、Habsburg 家の継承権を求めた。

 この 2 人はそれぞれが Karl VI. の兄で、1705 年から 1711 年のその死亡迄、神聖 Roma 帝国皇帝であった Joseph I. (1678-1711) の末の娘 Maria Amalia von Österreich (1701–1756) と、同じくその長女の Maria Josepha von Österreich (1699–1757) の配偶者であって、その関係から Joseph I. の没後皇帝位を継いだその弟 Karl VI. の娘に対して、相続権が優先すると主張した。

 一方その年の 5 月に Preußen の国王に即位したばかりの Friedrich II. (1712-1786) は、父親の Friedrich Wilhelm I. (1688-1740) が先代の国王であった 1728 年に、Preußen 王国として既に Pragmatische Sanktion を承認していたにも関わらず、上記 2 人の相続権の主張による混乱を利用して、Pragmatische Sanktion に基づく相続を承認する条件として、1686 年に既にその権利を放棄していた Silesia 地方 (現在の Poland 共和国南西部から Czech 共和国北東部に跨る地域) の権利を再度主張し、その Preußen 王国への割譲を要求した。

 同年 12 月 11 日に Friedrich II. は Maria Theresia に要求の最後通告を行ったが、その返答を待つ事無く早くも 5 日後の 16 日には Austria の不意を突き、Schlesien に軍隊を侵攻させて占領してしまう。
これによって以後 Europe の主要国を巻き込む事になる、9 年間に亘る Austria 継承戦争が勃発する。

 

 


この先は次回
»Franz I. Stephan Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 3]
へ続く

 

 


Franz Stephan が
Lothringen と Bar 公国を失う経緯
及び
Sachsen 選帝侯 Friedrich August II.
に関しては
»Poland 王位継承戦争«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 1]
を参照

 


Pragmatische Sanktion
に関しては
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 2]
を参照

 

 


上部の写真:


Franz Stephan の配偶者
Maria Theresia が 11 歳の頃の
肖像画

Denmark の肖像画家
Andreas Møller (1684-1762) による
油彩画

 

 

 

 

 


Wien の宮廷画家
Martin van Mijtens (1695-1770)
による
1736 年の結婚式の直前に描かれた
新婦の公式肖像画

 

 

 

 

 

 

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