Kommentar 2013 Nr. 3

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Franz I. Stephan

 


(Franz Stephan von Lothringen)

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Franz I. Stephan Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 2]
より続く

 


Beethoven が Wien に出る前に
Bonn で仕えていた領主
Köln 選帝侯 Maxmilian Franz (1756-1801)
の父親
神聖 Roma 帝国皇帝 Franz I. Stephan
について

 

 1740 年に神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VI. (1685-1740) が亡くなると、Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) は Karl VI. が 1713 年に定めた Pragmatische Sanktion によって Habsburg 家の承継者となり、同時に 1736 年に結婚していた配偶者の Franz Stephan von Lothringen (1708-1765) を Habsburg 家世襲領地の共同統治者に定めた。
Habsburg 家の継承権はこの Pragmatische Sanktion によって Maria Theresia が得る事が出来たが、一方神聖 Roma 帝国皇帝位は女性には認められていなかったので、皇帝 Karl VI. の後継者としては Franz Stephan がそれに就く事を Habsburg 家では狙っていた。

 しかし 1742 年 1 月に Frankfurt に於いて行われた皇帝位の選挙では、Maria Theresia の Habsburg 家の相続承継に異議を唱えて、Austria 継承戦争勃発のきっかけの一つとなった Bayern 選帝侯 Karl I. (1697-1745) が、その戦争に勝利した暁には Habsburg 家の世襲領地を Bayern と 2 分するという協定を結んで反 Austria 側に寝返った、 Sachsen 選帝侯 Friedrich August II. (1696-1763) の支持も手伝い、皇帝に選出された。
これによって Maria Theresia の当初の目論見は失敗し、それに至る迄の凡そ 300 年間の中で初めて、Habsburg 家以外からの神聖 Roma 帝国皇帝が生まれた事になる。
Bayern 選帝侯の Karl I. は翌 2 月に、神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VII. として戴冠する。

 Austria 継承戦争の方はそれとは関係無くその後も継続し、皇帝位は手にしたもののこの戦争に関しては Bayern にとって思う様に事が運ばず、Karl I. 自身が何度も自国の領土から避難せざるを得ない目に遭うという不運の中、1745 年 6 月 20 日に皇帝在位 3 年余りで亡くなる。
その後継者で長男の Bayern 選帝侯 Maximilian III. Joseph (1727-1777) は、同年 Füssen に於いて Maria Theresia と単独講和を締結し、Bayern の Pragmatische Sanktion に対する異議申し立てを撤回し、次回の神聖 Roma 帝国皇帝選出の選挙では Franz Stephan に投票する事を約束して、自国の領有権を漸く回復する事が出来た。

 1745 年 9 月 13 日に Frankfurt am Main に於いて行われた皇帝選挙では、Franz Stephan が 9 人の選帝侯の内の 7 票を獲得して皇帝に選出された。
戴冠式は同年 10 月 4 日に同地で行われ、神聖 Roma 帝国皇帝としては Franz I. と名乗る事となった。
これで皇帝位は Wittelsbacher 家を短期間 1 代挟んだだけで再び Habsburg 家の手に戻り、その後皇帝位は神聖 Roma 帝国の崩壊に至る迄他家に渡る事は無かった。

 Maria Theresia との結婚以来自分の配偶者よりも下位の階級とそれに応じた座席に甘んじざるを得なかった Franz Stephan ではあったが、皇帝即位によって当然 Maria Theresia よりも上位に位置する事となり、そういう苦労にもこれで終わりが告げられた。

 Franz Stephan は 1736 年に Holíč (現在の Czech 共和国との国境から 4 ㎞ に位置する Slovakia 共和国の町) の土地を購入し、そこに Faenza 焼きやその他の陶器工場を建設して経営したが、これが大変成功して Habsburg 領全域の需要を賄う程の規模に迄その事業は大きく拡大成長し、この町の発展にも大いに寄与した。

 また Wien の南東約 10 ㎞ に位置する Schwechat (現在 Wien の空港がある町) と Sassin (当時は Hungary 王国領、現在の Slovakia 共和国西部の町) には木綿の織物工場を建設して経営したが、こちらも同様に 3 万人もの従業員を擁する程に迄成長して大きな成功を収めた。

 Franz Stephan の示したこれ等の事業経営の才能によって、彼の得る事が出来た収益は莫大なものになったが、1763 年に Habsburg 君主国の財政赤字がかなり悪化した折には、Franz Stephan が個人的に国家の市民に対する負債を全て肩代わりして、国家破産の危機から救っている。
これによって Maria Theresia も Franz Stephan の経済的才能を認め、これ以後 Habsburg の国家財政の立て直しと健全化を Franz Stephan に任せる様になった。

 またこの Franz Stephan の経済的才能によって、その 2 人の間の子供で次の皇帝となる Joseph II. (1741-1790) の代だけでは無く、Maria Theresia と Franz Stephan の結婚によって新しく生まれた Habsburg-Lothringen 家が、1918 年にその終焉を迎える事になる迄帝国支配を続ける事が出来た、その私的財産の基盤を作り上げる事に成功したと認められている。

 

 


この先は次回
»Franz I. Stephan Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 4]
へ続く

 

 


Pragmatische Sanktion
に関しては
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 2]
を参照

 


神聖 Roma 帝国皇帝の選出及び選帝侯
に関しては
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 3]
を参照

 

 


上部の写真:


Wien の宮廷画家
Martin van Mijtens (1695-1770)
によるものと推定される
神聖 Roma 帝国皇帝 Franz I. としての
油彩肖像画

 

 

 

 

 

 

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