Kommentar 2013 Nr. 4

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Franz I. Stephan

 


(Franz Stephan von Lothringen)

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 

 


»Franz I. Stephan Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 3]
より続く

 


Beethoven が Wien に出る前に
Bonn で仕えていた領主
Köln 選帝侯 Maxmilian Franz (1756-1801)
の父親
神聖 Roma 帝国皇帝 Franz I. Stephan
について

 

 国家財政を立て直してその破産の危機から救い、Habsburg-Lothringen 家の財政基盤を作るという公的な面で大きな成果を挙げた Franz Stephan von Lothringen (1708-1765) であったが、個人的には自然科学に大きな興味を持っており、また鉱物や硬貨等の収集という趣味も持っていた。これ等は現在 Wien の美術史美術館に収められている硬貨と Medal の所蔵品の基礎となり、数多くの Tapisserie も現在同美術館に収蔵されている。また約 5 万点に及ぶ鉱物を始めとする Franz Stephan の収集物に基づく 「博物標本蒐集」 は、現在の Wien の自然史博物館の前身となった。

 Franz Stephan は自然科学の発展と探究という観点から、彼が神聖 Roma 帝国皇帝に即位した 1745 年に、Nederland 出身の医師 Gerard van Swieten (1700-1772) を、配偶者の Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) の侍医として Wien に招いた。
その立場から Gerard van Swieten はそれ以後、Austria の医療体制と医学教育の改革に取り組んだ。
1754 年に Gerard van Swieten の勧めによって、Wien に初めての近代的な病院が宮廷によって設立され、また臨床教育の導入や、現在の Wien 大学植物園 (当時は医学植物園) と医化学研究所の設立も彼の提案によって実現された。
これ等の功績によって Gerard van Swieten は、第 1 次 Wien 医学学派の創始者として広く認められている。

 一方 Maria Theresia の代になって夏の離宮として使われる事になった Schönbrunn 宮殿の庭園は、Franz Stephan の案と資金によって現在の規模に迄拡大整備された。
また動物への興味とその科学的研究の為に、その一角に Barock 様式の建築による動物園を作った。
1752 年にその大部分が完成し、動物達も各地からやって来て、Franz Stephan はその年の 7 月 31 日に、最初の来客を招いて動物園を披露したという記録が残されているため、その日が Schönbrunn 動物園の公式な開園の日とされている。

 その年の秋には Franz Stephan の招待によって、Wien の Theresianische Akademie の生徒達が動物園を訪れている。
この動物園には Franz Stephan によって、当時の Europe では大変珍しい動物達も多く集められ、そこで死んだそれ等の動物は剥製にして、同じく彼によって設立された 「博物標本蒐集」 に加えられた。
この Schönbrunn 宮の動物園は、現在に至る迄存続する動物園の中では世界最古のものとなっている。

 Schönbrunn の動物園が初めて披露されたその翌年には、Schönbrunn 宮の西に隣接する土地を Franz Stephan が自費で買い足して、現在大温室がある位置に „Holländischer Garten” (Holland 風植物園) と呼ばれたが、実際には France 様式による植物園を開いた。
前記 Gerard van Swieten の推薦によって、彼と同郷の Nederland 出身の庭園師 Adrian van Steckhoven (ca. 1705-1782) が Wien に招かれて、その管理を任された。
Schönbrunn 宮で最初の庭園師となった Steckhoven は、Asia 原産の扇状椰子を初めて Wien にもたらし、Schönbrunn 宮の庭園を緑豊かなものにするのに大いに貢献した。これが現在の大温室に繋がる Schönbrunn の異国的な植物収集の基礎となった。

 Franz Stephan はまた植物学者の Nikolaus Joseph von Jacquin (1727-1817) による Caribe 海への探検旅行の資金を提供し、Jacquin は珍しい植物や鉱物を Wien にもたらした。
彼は 1769 年より Wien 大学の化学と植物学の教授で、同時に大学植物園の園長となった。後には Schönbrunn 宮帝室植物園長を務める。

 その息子の Joseph Franz von Jacquin (1766-1839) も父親と同じく、後にその Wien 大学の教授職を継いだ化学者で植物学者だが、その家族は Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) と交友関係があり、Joseph Franz von Jacquin とその妹 Franziska von Jacquin (1769-1850) の為に、Mozart はそれぞれ何曲かの作品を書き、また Joseph Franz は Mozart の Klavier の生徒であった Maria Barbara Natorp (1769-1844) と後に結婚する事になる。

 この時代に 「天から降る石」 と言われた隕石の存在は、当時の学者からはその存在自体が否定されていたが、Franz Stephan はそれを自身の蒐集品に含めた。これは現在約 1,000 個からなる世界で最古の、Wien の自然史博物館の隕石所蔵品の基礎となった。

 また Franz Stephan は化学研究所を設立して、そこで様々な実験を行った。その中の一つに、凹面鏡の助けを借りて複数の小さな Diamond を融合させて、一つの大きな Diamond を作るという試みがあったが、残念ながら Diamond の完全な燃焼性が理解されるに留まった。

 1764 年 3 月 27 日に、Franz Stephan の長男 Joseph (1741-1790、後の皇帝 Joseph II.) が Roma ドイツ王に選出され、これで将来父親の皇帝位を Joseph が継ぐという事が決定された。
その翌年に Innsbruck に於いて、Franz Stephan の二男 Leopold (1747-1792、後の皇帝 Leopold II.) と Spain の王女 María Luisa de Borbón (1745-1792) の結婚式が行われる事になり、家族揃って Tirol の Innsbruck に旅立った。

 その結婚式は 8 月 5 日に行われたが、その後も御祝いの行事が続いて行われたので、皇帝一家は暫くそこに滞在していた。 8 月 18 日に Innsbruck の劇場から家族で戻って来た時に、Franz Stephan は急に心臓発作を起こして長男 Joseph の腕の中に倒れ、その日の内に亡くなる。
Joseph はその年に神聖 Roma 帝国皇帝 Joseph II. として即位し、Habsburg 家世襲領に関しては母親の Maria Theresia の共同統治者となった。

 

 


神聖 Roma 帝国皇帝の選出
及び
選帝侯
に関しては
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 3] 以降
を参照

 

 


上部の写真:


Wienの 宮廷画家
Martin van Mijtens (1695-1770) による
Franz Stephan と Maria Theresia の
家族の肖像画

Maria Theresia の
右横に立っているのが
Joseph

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.