Kommentar 2014 Nr. 4

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Ferdinand Ries

 


Teil 2

 

 

 

 

 

 

 


»Ferdinand Ries Teil 1«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 3]
より続く

 


Ludwig van Beethoven の
Klavier の生徒の一人
Ferdinand Ries
に関して

 

 1803 年の春より Ferdinand Ries (1784-1838) は、希少な Ludwig van Beethoven (1770-1827) の生徒の一人となる事が出来た。
Ries が Beethoven より教えを受けたのは Klavier の奏法であったが、それと同時に Ries は Wien に於いて作曲家及び理論家として、中でも特に対位法の教授で当時定評のあった Johann Georg Albrechtsberger (1736-1809) に散発的に作曲を習った。

 間も無く Ries は Beethoven の生徒と言うだけでは無くその私設秘書として、Beethoven に代わって出版社と通信を交わしたり、Beetoven の作品の写譜や、住居に於ける Beethoven の日常の生活の世話もする様になった。
また 1803 年と翌年の夏の休暇の季節には、Beetoven と共に Baden と Oberdöbling に赴いている。

 Klavier 奏者としては 1804 年 8 月 1 日に、Wien の Augarten で行われた演奏会に於いて、Ries は Beethoven の Konzert für Klavier und Orchester in c-moll (Nr. 3, op. 37) を演奏して début した。
その際には自身による Kadenz の作曲を Beethoven に許されて、それを演奏したと記録されている。

 当時 Ries の故郷の Bonn は Napoléon 軍の占領下にあったが、1805 年 11 月になるとその France 軍によって、占領下の Bonn の市民として Ries は徴兵され、Wien に於ける彼の修業時代は突然終わりを告げ、Bonn から Rhein 河沿いに南東へ約 60 km の所に位置する Koblenz に赴く。
しかし Ries はそこでの徴兵検査に於いて不適格となり、その後 Bonn の実家に 1 年以上の間滞在して、その間作曲活動に従事する。

 翌 1806 年に 2 曲の Sonaten für Klavier, op. 1 が Beethoven への恭しい献辞を添えられて、Bonn の N. Simrock 社より出版された。
この出版社を経営していた Nikolaus Simrock (1751-1832) は嘗ては、Bonn にあった Köln の選帝侯宮廷楽団の Horn 奏者であった人で、Ferdinand Ries の父親で同楽団の Violine 奏者であった Franz Anton Ries (1755-1846) の同僚であり、Beethoven とも親交のある人物であった。

 Ferdinand Ries はこの頃最初の Konzert für Klavier und Orchester in C-dur (後に Konzert Nr. 6, op. 123 として発表) を作曲する。
今回の Bonn 滞在中に Ferdinand Ries は Nikolaus Simrock と同様に、Bonn に於いて 1805 年に創設された Freemason の支部、„Les frères courageux” (勇敢な兄弟) の会員となっている。

 しかし故郷の Bonn に於いて Ries は自身が満足できる程度の、作曲家や Klavier 奏者としての評価を獲得する事は出来ず、1807 年になると新天地を求めて、Napoléon Bonaparte (1769-1821) の支配する France 帝国の首都 Paris へ移る。
そこで Ries は特に室内楽や Klavier の為の作品の作曲をするが、Bonn と同様に音楽家として成功を収めると言う程度に達する事は残念乍ら出来なかった。

 1808 年 8 月に Ries は再度 Wien に赴き、そこで嘗ての師 Beethoven にも再会する。
それから間も無い同年 11 月に Beethoven は、1807 年に第 4 次対仏大同盟戦争の結果 Tilsit の和約により誕生した、Westphalen 王国の国王で Napoléon Bonaparte の弟、Jérôme Bonaparte (1784-1860) の Kassel の宮廷に於ける楽長としての招聘を受けた。

 この頃の Beethoven 自身の演奏活動や後援者の貴族達からによる収入が不足していた訳では無いが、かと言って将来が安定的に保障されていると言う訳でも無く、またその為に Wien の宮廷劇場監督局に提出した任用の出願が拒否されたという事も相俟って、この Kassel からの招聘を Beethoven は積極的に考えていた。
しかし Wien の芸術を愛好する貴族達は、Wien に何とかして Beethoven を留めておこうとし、そのやり取りの中で Beethoven は不当にも Ries が自身の利益の為に、Beethoven の Kassel 行を阻んでいると誤解してしまい、この 2 人の関係は一時的に疎遠なものとなってしまう。

 丁度その頃の Wien は Napoléon 軍による深刻な脅威に晒されており、全兵力を動員してこれに対しなければならない必要があった。
そこで当時 Wien で暮らしていた Ries にも、今回は Austria 軍への召集という危機が迫り、その為に正に逃げる様にして Ries は 1809 年 7 月に Wien を去り、再度故郷の Bonn に赴いた。
そこで 1 年半程を過ごす事になるが、その間に 2 曲目の Konzert für Klavier und Orchester in c-moll (後に Konzert Nr. 4, op. 115 として発表) や、最初の Symphonie in D-dur と Konzert für Violine und Orchester in e-Mol 等を作曲する

 

 


この先は次回
»Ferdinand Ries Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


Beethoven を宮廷楽長として招聘した
Westphalen 王国の
紋章

 

 

 

 

 

 

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