Kommentar 2014 Nr. 5

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Ferdinand Ries

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Ferdinand Ries Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 4]
より続く

 


Ludwig van Beethoven の
Klavier の生徒の一人
Ferdinand Ries
に関して

 

 Napoléon 戦争が原因となって再度滞在する事となった、Ferdinand Ries (1784-1838) にとっての故郷の町 Bonn ではあったが、そこでの音楽家としての自身の将来に余り期待が持てないと判断した Ries は 1811 年 1 月に、Kassel、Hamburg、Kopenhagen と Stockholm を経て、Russia 帝国の首都 Sankt Petersburg を目指した長期に亘る演奏旅行を開始する。

 Sankt Petersburg に於いて Ries は、嘗て故郷の地で Violoncello を教わった事のある、その当時 Bonn の宮廷楽団員であった Bernhard Romberg (1767-1841) に再会し、彼と共に更に Russia 帝国の西部地域を回って演奏活動を続ける。
その折の演奏旅行の為に自身が演奏する事を目的として、後に Nr. 2 in Es-dur, op. 42 と Nr. 3 in cis-moll, op. 55 として出版された、2 曲の Konzert für Klavier und Orchester を作曲した。

 1812 年の夏になると、Napoléon Bonaparte (1769-1821) の指揮する France の大軍が次第に Moskwa を目指して迫って来たために、Ries は再度 Napoleon 戦争が原因となってその地からの逃避を余儀無くされ、今回は Europe 大陸を横断して更にその西の London を目指す。
途中暫くの期間立ち寄った Stockholm に於いて Ries は、王立 Sweden 音楽 Akademie に受け入れられるという事があった。

 今回の目的地の London に Ries は、Moskwa を去った翌年の 1813 年 4 月に到着した。
当時の London には、Ferdinand Ries の父親で Bonn の Köln 選帝侯宮廷楽団の団員であった Franz Anton Ries (1755-1846) の Violine の先生であった、同じく嘗て選帝侯宮廷楽団員であった Johann Peter Salomon (1745-1815) が居住していた。
Johann Peter Salomon は London に於いても Violine 奏者として活動していたが、後には演奏会興行も行うようになり、1791 年から 1792 年に掛けてと、1794 年から翌年に掛けての 2 回、Joseph Haydn (1723-1809) を Wien から London に招聘した事でも知られている。

 また Salomon は Ries が London に到着した年の 1 月に、そこで創設された Philharmonic Society of London の創立者達の一人でもあった。
この Salomon の助けにより、Ferdinand Ries は順調に London の音楽界の一員となる事が出来た。
当初 Ries は London の富裕層の間で、名声のある Klavier 奏者及びその教師としての地位を固める事が出来た。
London に来た翌 1814 年に Ries は、London の裕福な家系に属する Harriet Mangeon (1796-1863) と結婚する。
更にその翌年には Philharmonic Society of London の会員として受け入れられ、その年の内に理事の一人に選出される。

 London から Ries は Wien に居る嘗ての師、Ludwig van Beethoven (1770-1827) に連絡を取り、Beethoven と London の出版社及び Philharmonic Society との仲介役を担う。
この Ries を通じて Philharmonic Society は 1817 年に、Beethoven に新しい Symphonie の作曲を依嘱し、また Beethoven を演奏の為に London に招聘した。
Beethoven の London 楽旅が実現する事は無かったが、Symphonie の方はこれがきっかけとなって依嘱から 7 年後の 1824 年に、Beethoven の最後の Symphonie Nr. 9 in d-moll として完成する。

 また作曲家で Violine 奏者としても当時 Niccolò Paganini (1782-1840) に劣らぬ程の国際的な名声を博していた Louis Spohr (1784-1859) が、Ries の仲介によって London に招聘された。
Spohr はそこで初めて聴く機会を得た Philharmonic Society の Orchester の演奏に霊感を得て、彼の London 滞在の 4 箇月の間に、Symphonie Nr. 2 in d-moll, op. 49 を作曲し、更に London に於ける名声を高めて成功裏に演奏旅行を終え、故国の Dresden に戻った。

 

 


この先は次回
»Ferdinand Ries Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


1813 年 3 月 8 日月曜日に
Regent Street の Argyll Rooms に於いて行われた
Philharmonic Society の第 1 回演奏会の Program


Johann Peter Salomon が指揮を担当
Muzio Clementi が Klavier を演奏した

Wolfgang Amadeus Mozart の
Quartett と Serenade
及び
Ludwig van Beethoven と
Joseph Haydn の
Symphonien 等が
演奏された

 

 

 

 

 

 

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