Kommentar 2014 Nr. 6

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Ferdinand Ries

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 

 


»Ferdinand Ries Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 5]
より続く

 


Ludwig van Beethoven の
Klavier の生徒の一人
Ferdinand Ries
に関して

 

 1813 年からの London 滞在期間中に、Ferdinand Ries (1784-1838) によって作曲された作品に関しては、大きく 2 つの作品群に類別する事が出来る。
その 1 つは Orchester の為の作品で、彼の合計 8 曲の Symphonie の内の 6 曲、また同じく 5 曲の演奏会用序曲の内の 2 曲がこの期間に書かれている。これは彼自身が London に招聘した Louis Spohr (1784-1859) が、Philharmonic Society of London の Orchester の演奏に影響を受けて、彼の London 滞在中に Symphonie Nr. 2 in d-moll を作曲したという経緯のある、Philharmonic Society 及びその Orchester と Ries との密接な関係によると考える事が出来る。

 もう 1 つの作品群はその多くが、その当時良く知られていた Oper の Arie や流行りの俗曲の旋律に基づく Klavier の為の変奏曲、幻想曲及び Rondo や Divertimento 等の小品が中心となっている。
丁度その間に位置する様な弦楽四重奏曲、Sonate für Violine und Klavier 等の室内楽作品や、Klavier の為の作品の中でも Sonate の様な、作曲家の作品としてより重要度の高いものは殆ど書かれていない。

 1820 年になると、Ries の London に於ける音楽活動の中で最も重要な位置を占めていた Philharmonic Society と Ries との関係に陰りが兆し始める。
Ries は 1815 年以降 Philharmonic Society の理事の一人に任命されていたが、その他の理事達との争いがその原因となった。

 この時期の Ries による Orchester の為の作品は、Philharmonic Society の Orchester による演奏を想定して書かれており、またその Orchester によって実際に演奏されていたが、Ries はその Orchester の演奏会の為の曲目の設定に当たって、自身の作品が正当に取り扱われていないと考えていた。
そのために翌年になると Ries は Philharmonic Society の理事を辞任し、次第に London を去って Europe の大陸側に戻るという事を好んで考える様になって行った。

 1824 年 5 月 3 日に Ries は彼の London からの別れの演奏会を催す。
その演奏会の為に Ries は新たに、彼の 7 番目の器楽協奏曲となる Konzert für Klavier und Orchester in a-moll, op. 132 を作曲し、その London に於ける最後の演奏会の場で初演した。

 London で最後の演奏会を終え、その年の 7 月に Ries は故郷の Rhein 地方に戻っり、Godesberg に居を定めた。
Ries の器楽作曲家として、また指揮者としての名声は漸くこの頃になって、中欧の独語圏に於いても安定して認められるに至った。
London 時代に書いた Symphonie の内 Nr. 4 in F-dur, op. 110, Nr. 5 in d-moll, op. 112 と Nr. 6 in D-dur, op. 146 は 1823 年から 1827 年に掛けて、Leipzig の大手音楽出版社の Breitkopf & Härtel 及び C. F. Peters から出版された。

 1825 年に Ries は低部 Rhein 地方音楽祭の監督を任された。
毎年聖霊降臨祭の期間に開催される低部 Rhein 地方音楽祭は、その初回以来開催地を年毎に Elberfeld と Düsseldorf の間で交代して開催されて来た。1821 年になると Köln がそれに加わり、また Elberfeld は 1827 年を最後に、物流の制限の点からそれ以降は開催地から除外された。

 一方 Aachen は 1794 年以来 France 軍の占領下にあり、既にその頃より古くなった劇場の大改装と近代化、又はそれに代わる新しい劇場の建設が検討されて来たが、そのどちらも実現する事は無かった。
その後 1815 年に Europe 中を巻き込んだ Napoléon 戦争が漸く終結し、その戦後処理の為に開かれた Wien 会議の結果 Aache が Preußen 王国に併合される事になると、再度この古い劇場に関する検討が行われて、その結果それを取り壊して新しい劇場が建設される事になり、1825 年に新劇場が完成した。

 新劇場はその年の 5 月 15 日に、上記の Louis Spohr による Oper „Jessonda” を以て柿落としが行われた。
それに続く週は劇場新設への御祝いとして、初めて Aachen が低部 Rhein 地方音楽祭の会場となった。
丁度その年に初めてこの音楽祭の監督を任された Ries は、5 月 23 日にその新設されたばかりの劇場に於いて、嘗ての師 Beethoven の Symphonie Nr. 9 in d-moll, op. 125 の Preußen 王国初演を行った。

 

 


この先は次回
»Ferdinand Ries Teil 5«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


Wallon 人の素描画家及び Lithograph 作家
Jean Nicolas Ponsart (1788-1870)
による
完成翌年の Aachen の新劇場


柿落としの翌週に
低部 Rhein 地方音楽祭の催物として
Beethoven の
Symphonie Nr. 9 in d-moll, op. 125 の
Preußen 王国初演が行われた

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.