Kommentar 2014 Nr. 7

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Ferdinand Ries

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Ferdinand Ries Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2014 Nr. 6]
より続く

 


Ludwig van Beethoven の
Klavier の生徒の一人
Ferdinand Ries
に関して

 

 1824 年に故郷の Rhein 地方に戻り、翌年低部 Rhein 地方音楽祭の監督を任された Ferdinand Ries (1784-1838) は、その年 Aachen に於ける初の低部 Rhein 地方音楽祭を開催し、またその直後同地で嘗ての師 Ludwig van Beethoven (1770-1827) の、Symphonie Nr. 9 in d-moll, op. 125 の Preußen 王国初演を行う。

 その後 1837 年迄に合計 8 回同音楽祭の監督を務めた。
彼はこの音楽祭の為に 1829 年に „Der Sieg des Glaubens” (信仰の勝利)、op. 157 と、1837 年には „Die Könige in Israel” (Israelの王)、op. 186 という、2 曲の独唱、合唱と Orchester の為の 2 部構成の Oratorium を作曲している。

 また 1813 年から 1824 年に至る迄の、London 滞在期間中には余り顧みられなっか室内楽部門の作曲にも積極的に取り掛かり、例えば London 滞在の全期間中に弦楽四重奏曲は合計 3 曲しか書かれなかったのに対して、1825 年から翌年に掛けての短い期間に、計 5 曲の弦楽四重奏曲が Ries によって書かれている。

 しかしこれ等の Rhein 地方での活動にも拘らず、Ries にとって Godesberg の町は継続的で積極的な音楽活動の可能性と言う点に関して、満足出来るものでは無かった様で、1827 年に Ries は家族で Godesberg から Frankfurt am Main に移り住む。
Ries はその前年から Oper 作曲の計画を抱いていたが、今回の移動には Frankfurt am Main の名高い Oper 劇場がその視野に入れらえていたと考える事が出来る。

 実際にこの Ries の計画は成功し、彼の最初の Oper „Die Räuberbraut” (泥棒花嫁、op. 156) が、1828 年 10 月 15 日に Frankfurt am Main の劇場に於いて初演され大きな成功を収めている。この作品はその後 1830 年代に入っても、Frankhurt の歌劇場では毎年の上演演目に留まり、London に於いても上演された。

 1831 年には Ireland の Dublin から音楽祭の監督として Ries は招かれた。
彼はその機会を利用して数箇月間 London に滞在したが、そこで彼の 2 番目の Oper となる „Liska, oder die Hexe von Gyllensteen” (Liska 又は Gyllensteen の魔女、op. 164) を作曲し、同年 8 月 4 日に London の Royal Adelphi Theatre に於いて、„The Sorceress” という標題の下に初演された。

 彼の 3 番目で最後の Oper となる „Die Nacht auf dem Libanon” (Libanon の夜、WoO 51) を Ries は 1834 年に作曲したが、その後彼が亡くなる直前迄改訂作業を続けていた為、生前に上演される機会を持つ事は叶わなかった。

 1832 年から翌年に掛けて Ries 夫妻は、Venezia、Milano、Roma、Napoli 等の町を巡る Italia への旅に出る。
その旅行期間中に Ries はそれぞれの曲種に於いて彼の最後の作品となる、Konzert für Klavier und Orchester in g-moll, op. 177、Sonate für Klavier in A-dur, op. 176 と Quartett für Streicher in f-moll (WoO 48) を作曲する。

 1834 年の夏には Aachen の劇場 Orchester の監督を Ries に依頼する話がもたらされたが、Ries はそれを断っている。
1836 年から翌年に掛けての冬に Ries は Paris に滞在し、そこで彼の最後の Orchester の為の作品となる、Dramatische Ouvertüre „L’Apparition” (幻、WoO 61) を作曲する。
Ries は時折その Paris 滞在中に、嘗て長く住んでいた London に迄出向いていたが、その結果翌年の 3 月 13 日の Philharmonic Society の演奏会に於いて、この序曲が初演される事となった。

 その後 Frankfurt am Main に戻った Ries は 1837 年 8 月に、Johann Nepomuk Schelble (1789-1837) の後任として、Oratorium の合唱団としてはドイツで最も古い伝統を持つ、Schelble によって創設された „Cäcilienverein” の監督を依頼されてそれを受けた。しかし翌年 1 月 13 日に突然亡くなってしまったために、その職務をこなす事は殆ど叶わなかった。

 

 


上部の写真:


Ries の最初の Oper
„Die Räuberbraut”
が成功裏に初演された
Frankfurt am Main の歌劇場


1782 年に創建されてから
1880 年に新しく別の歌劇場が建設される迄使用された
Ries の Oper が上演されていた頃は
Nationaltheater (国民劇場) と呼ばれていた

1902 年の撮影

 

 

 

 

 

 

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