Kommentar 2015 Nr. 2

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 

 


Sigismund von Neukomm

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Sigismund von Neukomm Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 1]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart
と同郷で彼の音楽を敬愛し
また
Joseph Haydn
の生徒となって彼と生涯に亘る親密な関係を築いた
古典派から Roman 派の時代に掛けての
作曲家、Klavier 奏者、指揮者で楽長
Sigismund Ritter von Neukomm
に関して

 

 1805 年の夏に St. Petersburg のドイツ劇場の楽長職を退いた後 Sigismund von Neukomm (1778-1858) は、Moskwa (Moskva) へ移って自由な作曲活動を行ったが、また同時に指揮者としての活動も続けた。
Neukomm が Russia 帝国に行ってからも、嘗ての Wien での師 Joseph Haydn (1732-1809) との手紙でのやり取りは途絶える事なく続けられていたが、彼が Moskwa へ移って以後 St. Petersburg に於いても行われた彼の指揮による様々な演奏会では、彼の尊敬する Haydn の作品を好んで取り上げた。
これ等の活動による Neukomm の名声は Russia 帝国外にも伝わり、1807 年には Stockholm の王立音楽 Akademie の会員に任命され、またその翌年には St. Petersburg の Philharmonie 協会の会員にも指名されている。

 1808 年の 6 月末になると Neukomm は St. Petersburg を去り、Europe を目指して Riga と Preußen 王国の Königsberg を経由して、その首都 Berlin に赴いた。そこに Neukomm は 3 箇月間滞在して、当時 Berliner Singakademie の指揮者を務めていた Carl Friedrich Zelter (1758-1832) と親交を深めた。
Zelter は作曲家でまた教育者でもあり、その生徒の中では特に Felix Mendelssohn Bartholdy (1809-1847)、Otto Nicolai (1810-1849) や Giacomo Meyerbeer (1791-1864) 等が広く知られている。
Zelter はまた Johann Wolfgang von Goethe (1749-1832) と特に親しい関係にあり、Goethe と親称で呼び合った数少ない友人の一人でもあった。

 Neukomm はその後 Leipzig に滞在し、彼が St. Petersburg と Moskwa 滞在中に作曲した作品の出版交渉を行い、部分的には成功した。
Neukomm はその後更に南への旅を続け、1808 年の 11 月中旬に Wien に到着した。
早速 Neukomm は嘗ての師を訪ねたが、Joseph Haydn は老齢と病気によって既に非常に衰弱した状態であった。
Wien に於いて Neukomm は、尊敬しまた自身の父親の様に慕っていた Haydn を、毎日訪れて献身的に世話をした。

 その年の 12 月 22 日と 23 日には Wien の Theater am Kärntnertor に於いて開催された、„Wiener Tonkünstler-Sozietät” (Wien 音楽家協会) の主催による慈善演奏会に於いて、Neukomm は Haydn の Oratorium „Il ritorno di Tobia” (Tobia の帰還) を演奏した。
この上演に際して Neukomm は Haydn 自身の希望によって、33 年前に作曲されたこの Oratorium の改訂作業を行っている。
またこの演奏会の初日の方では Oratorium の演奏の前に、Neukomm が Moskwa 滞在中に作曲した Orchesterfantasie が演奏されている。
Moskwa で Neukomm が作曲したどの Orchesterfantasie がこの時演奏されたのかについては明らかになっていないが、恐らく Fantasie in d-moll für großes Orchester, op. 9 / NV 26 であるだろうと推測されている。

 この „Wiener Tonkünstler-Sozietät” の主催による演奏会が開かれた 2 日目には、同じ Haydn の Oratorium が演奏される前に、Ludwig van Beethoven (1770-1827) の Konzert für Klavier und Orchester in c-moll (Nr. 3, op. 37) が Beethoven の采配によって、丁度この時期に Wien に戻っていた彼の数少ない Klavier の生徒の一人、Ferdinand Ries (1784-1838) の Solo-Klavier によって演奏された。
因みにその前日には Theater an der Wien に於いて開催された Beethoven 主催の演奏会に於いて、彼の Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (Nr. 4, op. 58) が、作曲者の演奏によって公開初演されている。

 Neukomm は Wien に戻ってまだ 3 箇月しか経っていない 1809 年 2 月に、再び Wien を出立して Paris を目指したが、Joseph Haydn が亡くなったのはその 3 箇月後の 5 月 31 日であった。
Neukomm は Wien を出発して先ず、彼の母親に最後に会う事になる故郷の Salzburg を経由して、彼の Russia 時代に知り合った後援者の招きに応じて Mömpelgard (現在の Montbéliard) に滞在し、その後に今回の最終目的地の Paris へ向かった。

 この Mömpelgard は Württemberg 公爵 Friedrich Eugen (1732-1797) の居城のあった町だが、その第 4 子で長女の Sophie Dorothee von Württemberg (1759-1828) は、1776 年に Russia 帝国皇帝 Paul I. (1754-1801) の 2 番目の皇妃となった人で、Neukomm が 1804 年に Wien から St. Petersburg へ向かった折に、Joseph Haydn が Neukomm の為に書いた推薦状を宛てた人物であり、St. Petersburg に到着した Neukomm が間も無く、当地のドイツ劇場の楽長職を得る事が出来た事に大いに寄与している。

 Neukomm が Paris に住まいを構えて落ち着いた後の 1814 年に、彼は Wien の Joseph Haydn が葬られていた Hundsthurm 墓地に、師の為に墓碑を建立した。
現代では Wien 市の第 12 区 Meidling に位置する嘗ての Hundsthurm 墓地は、現在では Haydnpark となっていて、この時に Neukomm が建てた Haydn の墓碑以外は全て、1874 年に新設された Europe 内で最大規模の、Wien 中央墓地に移されている。

 

 


この先は次回
»Sigismund von Neukomm Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 3]
へ続く

 

 


Sophie Dorothee von Württemberg
に関しては
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 1]
を参照

 

 


上部の写真:


現在の Wien市第 12 区 Meidling の
Haydnpark に残されている
Sigismund von Neukomm が
1814 年に建立した
Joseph Haydn の墓碑


碑銘は
„Non omnis moriar”
(私は完全に死ぬ事はなかろう)

 

 

 

 

 

 

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