Kommentar 2015 Nr. 6

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 


Muzio Clementi

 


Teil 1

 

 

 

 

 

 

 


Italia の作曲家、鍵盤楽器奏者、音楽教育者で
更には Klavier の製造業や
音楽出版業も営んだ
Muzio Clementi
について

 

 Italia の作曲家、鍵盤楽器奏者、音楽教育者で更には Klavier の製造業や音楽出版業も営んだ Muzio Clementi (1752-1832) は、当時名声のあった銀細工職人 Nicolò Clementi (1720–1789) と、その 2 番目の配偶者 Magdalena Caisar の第 1 子長男として、1752 年 1 月 23 日に Roma に於いて生まれた。

 当時の習慣に従って生誕の翌日に、3 世紀の殉教者 San Lorenzo (di Roma) に捧げられた Roma の Basilika で教区教会の、San Lorenzo in Damaso で洗礼を受けた。
彼を含めて合計 7 人の兄弟姉妹の内その後迄生き残ったのは、後に Muzio と同じく音楽家になる弟の Gaetano (1757–1806) と、2 人の妹 Maria Luigia (1759 生) と Regina (1764 生) の計 3 人であった。

 Muzio Clementi は 6 歳の時に、親戚で作曲家の Antonio Boroni (1738-1792) より音楽の手解きを受ける。
その後 Roma の Orgel 奏者の Giovanni Battista Cordicelli、Castrato 歌手の Giuseppe Santarelli (1710–1790) と、当時の Roma に於いて最も厳格な対位法の教師という評判であった Gaetano Carpani (1692–1785) に音楽の基礎教育を受ける。

 Clementi は幼少より音楽の才能に恵まれていた様で、未だ 9 歳にしかならない 1761 年には嘗て洗礼を受けた Basilica di San Lorenzo in Damaso の、Orgel 奏者としての採用試験に合格し、また 12 歳の 1764 年には 4 声の Missa と Oratorium „Martirio de´ gloriosi Santi Giuliano e Celso” (栄光ある聖 Giuliano と Celso の殉教) WoO 1 を作曲している。

 1762 年と 1769 年の 2 度 London 市長を務めた事のある William Beckford (1709-1770) の甥に当たり、England の大地主で作家の Peter Beckford (1740–1811) は、父親が亡くなって財産の相続をした 1765 年から、初めての Italia へ向けての旅行に出発し、翌年には Roma に滞在して数々の古美術品の買付け等をした。そこで 14 歳の Clementi と知り合う機会があり、彼の Cembalo の演奏を聴いて未だ若い Clementi の音楽的才能に感銘を受け、彼に更なる音楽教育を与える為に、Beckford が Clementi を England へ連れ帰る事を認めるよう父親の説得を始めた。

 父親の同意を得て同年 Beckford は、自身の地所がある England 南西部の Dorset にある Blandford Forum へ Clementi を連れ帰った。
そこで Clementi は基礎的な学校教育も受ける事になり、それに加えて音楽教育も含めた全ての費用を Beckford は四半期毎に、Clementi が 21 歳になる 1773 年迄の 7 年間に亘って支払い続けた。
Clementi はその代償としてその間機会があれば、その領地での娯楽の為の音楽提供を求められた。
Beckford は後になって 「Clementi を 7 年間その父親から買い取った」 という発言をしている。

 Clementi はその間 Johann Sebastian Bach (1685-1750)、Georg Friedrich Händel (1685-1759) や Giuseppe Domenico Scarlatti (1685-1757) 等の、後期 Barock を代表する作曲家の作品を中心に、Cembalo と Orgel の練習に励んだ。
この間に Clementi によって作曲された作品は少なく、残された Sonate für Cembalo oder Fortepiano in G-dur, WoO 14 と、6 Sonaten für Cembalo oder Fortepiano, op. 1 以外のその大半は失われてしまった。

 1770 年に Clementi は Cembalo 奏者として初めて公の場に登場した。
1774 年になると、彼を Roma から England に連れて来た Beckford と別れて、Clementi は London に移り住み、翌 1775 年 4 月 3 日に Cembalo 奏者として、London で初めて公開の演奏会に登場した。翌 5 月 18 日には Hickford Room で London に於ける 2 回目の演奏会が行われ、それ以降他の声楽家と共に等数々の演奏会に登場する様になる。

 1779 年には London で Georg Friedrich Händel の Oper が 28 作品、Oratorium が 5 作品初演された事のある、Haymarket の King’s Theatre (現在の Her Majesty’s Theatre、王立劇場の一つ) の指揮者になり、Orchester の中央に位置して Cembalo によって通奏低音を演奏し乍ら指揮をするという方法で、劇場の Orchester による演奏を司る。

 この年から翌 1780 年に掛けて Clementi の London に於ける人気と名声は、丁度その時期に出版された彼の Sonate für Cembalo oder Fortepiano, op. 2 の成功も相俟って急速に高まって行き、London の音楽界の広い階層から、彼の才能に一目置かれるという様な状況になった。

 

 


この先は次回
»Muzio Clementi Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


London の Haymarket にある
King’s Theatre

Muzio Clementi が
指揮者を務めていた
18 世紀末頃の
第 1 世代の建物


この劇場は 1789 年に焼失
2 年後の 1791 年に再建され
その後もう一度の焼失と解体再建を経て
現在は第 4 世代の建物となっている

 

 

 

 

 

 

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