Kommentar 2015 Nr. 8

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 


Muzio Clementi

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Muzio Clementi Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 7]
より続く

 


Italia の作曲家、鍵盤楽器奏者、音楽教育者で
更には Klavier の製造業や
音楽出版業も営んだ
Muzio Clementi
について

 

 1790 年代に入ると Muzio Clementi (1752-1832) は、その活動を作曲及び演奏等の所謂音楽家の枠を超えて、楽譜の出版、音楽関係の物品販売及び楽器の製造業にも広げ始める。
それ以来長い関係を続けていた Klavier の製造会社 „Longman & Broderip” は、1799 年に „Longman, Clementi & Co.” と改称されたが、1805 年以降は „Clementi & Co.” となって、Klavier の製造だけでは無く、Clementi 自身も含む同時代の作曲家の数多くの作品の出版も行う様になった。
この楽譜出版業の為に Clementi は 1800 年に、Joseph Haydn (1732-1809) による Oratorium „Die Schöpfung” (天地創造) からの 12 曲を始めとして、数多くの編曲を手掛けた。

 1794 年に Ireland から London に出て来て以来、彼の生徒として教えていた John Field (1782-1837) と共に、Clementi は 1802 年より 2 回目の長期に亘る演奏旅行に出発する。
大陸に渡って最初は Paris に行き、その後に立ち寄った Wien では、1790 年に宮廷楽団員全員と共に、Esterházy 侯爵家の宮廷楽長職を解雇されて以来 Wien に居を据えていた、Joseph Haydn (1732-1809) を訪問する。

 その後 Russia 帝国の首都 Sankt Petersburg にも行き、生徒の Field はその後そこに留まったが、Clementi は更に旅を続けて 1803 年に Dresden に到着した。そこでは後に鍵盤楽器奏者及び作曲家となる August Alexander Klengel (1783-1852) が Clemeti の生徒になり、それ以降の Clementi の楽旅にも同行した。

 その次に Clementi が向かった Berlin では Varnhagen 家の Salon に於いて、当地で歌手、Orgel 奏者及び作曲家としての活動をしていた Johann Georg Gottlieb Lehmann (1745/46-1816) の娘で、当時 18 歳の Caroline Lehmann (1786-1805) と知り合い、1804 年 9 月 18 日に 52 歳の Clementi と結婚する。
その後 Clementi は夫人を伴って更なる旅を続けて Italia 半島に南下し、Roma と Napoli を訪れる。
そこで翌 1805 年 8 月 8 日に 2 人の間の子供の Carl が誕生するが、その 9 日後に Caroline は亡くなってしまう。

 傷心の Clementi はそれを癒すかの様に、それ以後も更なる旅を続ける。
今回は彼の生徒で後に作曲家及び Klavier 奏者となる Ludwig Berger (1777-1839) と、前述の August Alexander Klengel が同行し、現在は独立した Latvia 共和国の主都となっている Riga を経由して再度 Sankt Petersburg を訪れ、その後 1807 年に再び Wien に戻る。

 今回の Wien 訪問では、Clementi の作曲した作品を以前から高く評価していた Ludwig van Beethoven (1770-1827) と知り合い、その間に懇意な関係を築く事が出来た。
その結果、既に London に於いて楽譜の出版業も営んでいた Clementi と Beethoven は、彼の Symphonie in B-dur (Nr. 4)、Drei Quartette für Streicher „Razumovsky-Quartett” in F-dur, c-moll と C-dur、Konzert für Violine und Orchester in D-dur、Coriolan-Ouvertüre 及び Konzert für Klavier und Orchester in G-dur (Nr. 4) を含む、この時期の Beethoven による新作の、英国に於ける出版権を Clementi に保証するという内容の出版契約を取り交わす事となった。
早くもその年の 4 月 22 日にはその契約に含まれていた諸作品の内、Konzert für Klavier und Orchester in G-dur を含む 3 作品の筆写譜が、出版準備の為に London に向けて発送されている。

 その後 Clementi は Wien から再び Italia 半島へ南下して、Milano 及び 2 回目の Roma 訪問の後に、もう一度 1809 年に Wien へ戻り、Beethoven の生徒であった可能性のある Klavier 奏者 Dorothea von Ertmann (1781-1849)、また同じく時折 Beethoven の教えを受けていた可能性が考えられる Klavier 奏者で作曲家の Marie Bigot 1786-1820)、及び Beethoven と懇意な関係にあった、後に作曲家で Klavier 奏者となる若く有能な Ignaz Moscheles (1794-1870) 等を始めとする、当時の Wien で名の知られた多くの音楽家達と親交を結ぶ。

 その後漸く Clementi は英国を目指し、1810 年の夏に London に戻っている。
翌 1811 年 7 月 6 日に Clementi は Emma Gisborne (1785-1864) と、London の Old Church, St. Pancras に於いて結婚する。
この両人はその後幸せな結婚生活を送る事が出来て、Vincent (1812-1892)、Ceceilia Susanna (1815 生)、Caroline Emma (1821 生) と John Muzio の 4 人の子供にも恵まれた。

 

 


この先は次回
»Muzio Clementi Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2016 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


Wien の王宮前の
Josef 広場


Austria の画家
Rudolf von Alt (1812-1905) による
水彩画

1831 年制作

 

 

 

 

 

 

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