Kommentar 2016 Nr. 1

 

 

 


Thema : Ludwig van Beethoven

 


Muzio Clementi

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 


»Muzio Clementi Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2015 Nr. 8]
より続く

 


Italia の作曲家、鍵盤楽器奏者、音楽教育者で
更には Klavier の製造業や
音楽出版業も営んだ
Muzio Clementi
について

 

 1813 年に Muzio Clementi (1752-1832) は London に於いて、主に定期的な演奏会の開催を通じて、可能な限り最良の器楽音楽の提供をその目的とした、Philharmonic Society (1912 年以降は Royal Philharmonic Society と改称) の設立に参加し、3 月 18 日に行われたその第 1 回の演奏会では、Klavier 奏者として演奏に参加している。

 またこの組織は同時に複数の音楽監督を置いてきたが、Clementi はその最初期の監督の一人にも任命されている。
この時期に Clementi は彼と同じく Philharmonic Society の創設者達の一人で、その創設期には指揮者も務めていた Johann Peter Salomon (1745-1815) を通じて、丁度その頃 Napoléon 戦争の戦禍を避けて London に来ていた、Beethoven の嘗ての Klavier の生徒の一人で作曲家、また Klavier 奏者となった Ferdinand Ries (1784-1838) と知り合っている。

 1817 年に Clementi は „Gradus ad Parnassum” (op. 44) の作曲を始める。この Fortepiano の為の 100 曲の Étude からなる作品集は、現代の Klavier 演奏法の教授の場に於いても有効な広く知られた作品で、1826 年に完成される。
この作品は当時の未だ Fortepiano の演奏が Cembalo の演奏技術の延長として捉えられていた時代に、その後から現代に迄繋がる事になる、新しい Klavier の演奏技術へと導く先駆的な役目を担うものであった。
後に France 印象派を代表する作曲家となる Claude Debussy (1862-1918) は、1908 年に完成した 6 曲から成る Klavier の為の作品、„Children’s Corner, Petite Suite pour Piano seul” の第 1 曲に、„Doctor Gradus ad Parnassum” という標題を付けている。

 1814 年 12 月 24 日に Clementi は Sweden の王立音楽 Akademie の会員に選ばれている。
また 1818 年に Paris と Frankfurt am Main を訪れた旅行に続いて、1822 年には Leipzig に行き、そこの Gewandhaus での幾つかの演奏会の指揮をして成功を収めている。
Clementi が London に於いて設立に関与した Philharmonic Society に先立って、同種の組織としては Leipzig の Gewandhaus-Konzertverein (演奏協会) が世界で最古のもので、Philharmonic Society はそれに次いで 2 番目となる。

 同年 Clementi は、Wien から London を訪れた Ignaz Moscheles (1794-1870) と知り合っている。
Moscheles は生地の Praha 音楽院時代から Clementi の作品を知っていたが、その後 Wien に移り、Johann Georg Albrechtsberger (1736–1809) と、宮廷楽長 Antonio Salieri (1750–1825) の下で作曲の勉強をしており、また彼の憧れの Ludwig van Beethoven にもその才能を認められて、彼の Oper „Fidelio” の Klavier 譜への編曲を任されており、それ以後も両者の親交は続いた。

 既に Klavier 演奏の名手としての評判を得ていた Moschelesは、1822 年に London を訪れた際に Philharmonic Society の会員に迎えられ、またそれ以後 Clementi の教えも受けている。
Moscheles は 1825 年に、詩人で作家の Heinrich Heine (1797-1856) の従姉妹に当たる Charlotte Embden と結婚して London に移り住み、それ以来 1846 年迄そこに留まった。

 1824 年には London に居た Clementi を Franz Liszt (1811-1886) が訪問する。Liszt はその前年迄、Wien に於いて宮廷楽長の Antonio Salieri (1750-1825) と、Ludwig van Beethoven の生徒であった Carl Czerny (1791-1857) に Klavier 演奏の教えを受けていたが、前年の 1823 年に一家で Paris に移り住んでいた。
Liszt は Paris に於いて既に 「Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の生まれ変わり」 という様な評判迄得ていたが、翌年から 1827 年に掛けて何度も父親と一緒に England に渡り、Windsor 城を始めとして 「神童」 と迄言われた演奏を各地で披露していた。

 1829 年に 20 歳の Felix Mendelssohn Bartholdy (1809-1847) が Clementi を訪問している。このきっかけとなったのは前述の Ignaz Moscheles で、その 5 年前に Felix の父親の Abraham Mendelssohn Bartholdy (1776-1835) より、その 2 人の子供の音楽教育を依頼された Moscheles は、Berlin の彼等を訪ねて Felix と知り合っている。

 Moscheles は自身が Europe 中を演奏旅行で廻った際に知り合った、才能のある音楽家を Philharmonic Society に推薦していたが、Felix Mendelssohn Bartholdy を推薦するのに躊躇する事は無く、またその同じく会員で指揮者の George Smart (1776-1867) も、その後 Berlin を訪れた際に Felix に会っていて、その結果 Philharmonic Society から招聘を受けたのが彼にとって初めての訪英へと繋がった。

 Philharmonic Society の演奏会で Felix Mendelssohn Bartholdy は、彼が 15 歳で完成させた Symphonie Nr. 1 in c-Moll, op. 11 や、彼が 17 歳の時に書いた序曲 „Ein Sommernachtstraum” (夏の夜の夢、op. 21, MWV P 3)、また Beethoven の Konzert für Klavier und Orchester in Es-dur (Nr. 5, op. 73) 等を London 初演として演奏している。

 その後 Clementi は London の喧騒を離れて、静かに暮らせる田舎の Evesham に家族と共に移り、1832 年 3 月 10 日に 80 歳で亡くなった。
葬儀は 3 月 29 日に行われ、London の Westminster 寺院の南翼に埋葬された。
その隣には Clementi と同じく Philharmonic Society の創設者の一人で、Violine 奏者、指揮者、また音楽興業主で、 Joseph Haydn (1743-1809) を 2 度 Wien から London に招き、彼の最後の 12 曲の Symphonie 作曲の機会を作った事でも知られている、上述の Johann Peter Salomon が埋葬されている。

 

 


上部の写真:


Clementi が
Leipzig で指揮をした時の会場
旧 Gewandhaus


Felix Mendelssohn Bartholdy
による水彩画

1836 年制作

 

 

 

 

 

 

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