Kommentar 2016 Nr. 6

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Domenico Carlo Maria Dragonetti

 


Teil 3

 

 

 

 

 

 

 


»Domenico Carlo Maria Dragonetti Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2016 Nr. 5]
より続く

 


Beethoven を始めとする
数多くの著名な作曲家と親交を結び
最初の国際的な Kontrabaß の名奏者として
後期古典派及び Roman 派に於ける
独立した Kontrabaß 奏法の発展に多大な功績を遺した
Domenico Carlo Maria Dragonetti
について

 

 Ludwig van Beethoven (1770-1827) が Domenico Carlo Maria Dragonetti (1763-1846) の演奏に感心したのは何よりも、それ以前の Wien 古典派の様式では決して見られる事の無かった様な、Baß 声部の実際的な扱い方に全く新しい可能性を見出す事が出来たからで、またその響きの与える効果が Beethoven の思い描いていた音楽的構想に良く合致したからだと考える事が出来る。

 また Dragonetti はしばしば Kontrabaß が Violine や Violoncello を真似て、彼によればそれに劣らぬ程の演奏が器用に出来るという事を披露するという様な、見世物的な演奏を聴衆の前で好んでしていたという事実は確かにあったが、それが彼にとって重要な芸術上の関心事では決して無かった。
そういうものでは無く彼が本当に目指していたのは、堅牢でしっかりとした安定性が有り乍らも機動性を兼ね備える、最低声部としての Kontrabaß の音楽的存在で、それがこれからの新しい器楽音楽には絶対不可欠の前提条件であると考えていた。
そのために彼が若い頃にやっていた、羽目を外す様な名人芸的演奏からはすぐに手を引き、これからの新しい時代に属する合奏美学の確立にその精力を注ぐ様になった。

 初めての Wien 訪問の折に、Beethoven に対して大きな影響を残した Dragonetti であったが、その後更に彼と Wien との繋がりを生む事になったのは、Bohemia 生まれで Wien に於いて亡くなった、作曲家で音楽理論家の Simon Sechter (1788-1867) であった。
この両者は 1808 年に Dragonetti が、Starhemberg 伯爵 Ludwig Joseph Maximilian (1762-1833) に招かれて Wien を訪れた際に出会っている。

 後に Franz Schubert (1797–1828) や Anton Bruckner (1824–1896) を始めとする、数多くの作曲家や理論家の師として歴史にその名を残す事になる Sechter は、その時 Wien で Starhemberg 伯爵に仕える下位の音楽家という身分であったが、Dragonetti の伴奏を Klavier で務める内にすぐ、Dragonetti のお気に入りの伴奏者となった。
Dragonetti は後に Sechter に関して 「Wien で唯一人、自分が一緒に音楽を演奏したい人」 と述べている。

 Dragonetti は自身の修業時代には何よりも先ず第一に、楽器奏者としての能力の獲得に集中せざるを得なかったために、Sechter の和声学、対位法、作曲法を始めとするその広範な知識を非常に高く評価していた。
そのために Dragonetti は、それ迄に彼が作曲していたがその伴奏声部に関しては下書き程度にしか書けていなかった曲の、最終的な完成を Sechter に全面的に託すようになった。この両者の作曲者と編曲者という様な関係は、その後少なくとも 1839 年に至る迄の長期間に亘って継続する。

 一方これに対して、Sechter が Dragonetti から得た Kontrabaß の新しい奏法と可能性に関して得た知識は、その後彼の生徒達に伝えられる事となった。
特にその顕著な例は、長い間同時代の Kontrabaß 奏者に演奏不可能と断定されるという不運に見舞われる事となった、Anton Bruckner の Symphonie に於ける、広い範囲に亘って機敏に動く Kontrabaß 声部の扱い方に見出す事が出来る。

 1794 年に Dragonetti が Venezia 共和国の財政状況が原因となって、Basilica di San Marco の大聖堂楽団から 5 年間の休職期間を得た時、先ずは 1 年間 Haymarket にある King’s Theatre の Orchester に加わって演奏する為に London に渡った。
この King’s Theatre は 1792 年から 1843 年に至る期間、London に於ける伊語 Oper の独占上演権を与えられていた劇場で、Dragonetti が 1794 年にこの劇場の Orchester に加わる前にも、Venezia の Oper 劇場は財政問題が原因となって、その前年は通年に亘って閉鎖という憂き目にあっていため、その時の全ての演目を携えて London に来ていた。
そのために London の聴衆にとって Dragonetti は、その頃から徐々に知られつつあった。

 この頃の King’s Theatre は、経済感覚に乏しくまた芸術面に於いても無能力な支配人の采配の下で、しばしば苦しむという不運な状況にはあったが、聴衆の間ではそれに反してこの劇場の公演がとても高い名声を得ており、その基盤としてこの劇場の為に Dragonetti が果たした役割は、決して小さく無かったと考える事が出来る。
この King’s Theatre 専属 Orchester の中で、最も人気があり声望の厚かった団員として Dragonetti には、公演毎に最低 £ 4 とそれに加えて更に特別手当の支給という最上級の報酬を与えられ、また同劇場に於いて彼個人の利益の為の演奏会を催す権利も認められたと言う様な、特別な待遇で迎えられていた。

 

 


この先は次回
»Domenico Carlo Maria Dragonetti Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2016 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


Dragonetti が演奏していた頃の
King’s Theatre


King’s Theatre は 1705 年 4 月 9 日に
Queen’s Theatre として杮落しが行われた
その後 1714 年に
Georg I. (1660-1727) の国王即位に伴って
King’s Theatre と改名された


1789 年 6 月 17 日に全焼
1791 年 3 月に
King’s Theatre の舞台装置を担当していた
Italia 人の画家で建築家の
Michael Novosielski (ca. 1747-1795)
の設計によって再建された

 

 

 

 

 

 

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