Kommentar 2017 Nr. 2

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Johann Peter Salomon

 

 

 

 

 

 

 

 Johann Peter Salomon (1745-1815) は Bonn に於いて、音楽家 Philipp Salomon の次男として 1745 年 2 月 (洗礼は 2 日) に生まれる。
早くから Violine を習い、Köln 大司教及び選帝侯 Clemens August I. (1700-1761) の宮廷 Orchester に於いて、報酬の伴わない臨時奏者として働いていた Johann Peter Salomon は、彼が未だ 13 歳であった 1758 年 8 月 30 日に、125 Gulden の年俸を支払われる正団員に採用される。

 しかし彼が 19 歳になった 1764 年には、長い演奏旅行に出る事を決意して Bonn を去る。
その間の Johann Peter Salomon の宮廷 Orchester に於ける地位の保留を請願していた父親の Philipp Salomon は、それに関しては却下されたものの、1764 年 8 月 11 日付けの布告によって、彼自身が宮廷 Orchester の Violine 奏者として、また同時に彼の娘の Anna Maria と Anna Jakobina は歌手として、それぞれ宮廷音楽家に採用される事となる。

 その後 1765 年 7 月 1 日に、Clemens August I. の後任の Köln 選帝侯 Maximilian Friedrich von Königsegg-Rothenfels (1708-1784) より Johann Peter Salomon に対して、「忠実で勤勉に務めを果たし、身分に応じてそれぞれの者に推薦するに値する立ち居振る舞いを行った」 という人物証明書が発行されたが、これによってその後の彼の人生行路の成功が始まる。

 彼が最初に訪れた Frankfurt am Main に於いて、既に Violine 奏者としての注目を集める事が出来たが、それに次いで訪ねた Preußen 王国の首都 Berlin では、国王 Friedrich II. (1712-1786) の弟の Heinrich von Preußen (1726–1802) の、Brandenburg 辺境伯領 Rheinsberg に於ける宮廷 Orchester の Konzertmeister に就任する。
しかしこの Orchester が 1780 年に解散される事になり、Salomon は 先ず故郷の Bonn に帰って暫く滞在した後、今度は西に向かって Paris を目指す。
Paris ではそれ迄と同様に成功裏に終わった演奏に加えて、自作の幾つかの作品を出版する事も出来た。

 その後 1781 年に London に渡り、同年 3 月 23 日に Covent Garden の Royal Opera House に於いて、最初の演奏会を開いている。
London に於いて Salomon は、Violine の Solo 奏者や弦楽四重奏団の奏者としての活動で成功を収めていたが、同時に音楽興行も営むようになり、既に 1783 年には London の Freemason’s Hall を会場とする、9 回の予約演奏会の告知を行った記録が残されている。
1786 年には彼の主催による予約演奏会の会場を、当時の London を代表する Hanover Square Rooms に移す事が出来る様になった。

 1790 年に一度故郷の Bonn に帰った Salomon は、Joseph Haydn (1732-1809) がそれ迄長年に亘って仕えて来た、Esterházy de Galantha 侯爵 Nikolaus I. Joseph (1714-1790) が同年 9 月 28 日に亡くなり、その家督を継いだ長男の Anton I. (1738-1794) によって、宮廷楽団の解散と共に Joseph Haydn (1732-1809) も宮廷楽長職を解かれ、Esterházy 侯爵家の務めから解放されて自由の身になったという事を聞き、早速 Wien に迄足を伸ばして、Joseph Haydn を London に招聘する契約の締結に成功する。

2 人は翌年の 1 月初頭に London に到着し、Haydn はその翌年の 5 月迄の凡そ 1 年半に及ぶ London 滞在中に、Hob. I/93 から I/98 迄の計 6 曲の Symphonie を作曲し、これ等は London の Hanover Square Rooms を会場として催された „Salomon’s Concerts” に於いて、Haydn 自身の指揮によって初演された。
またこの時の London に於ける演奏会の為に Haydn は、Sinfonia Concertante für Solo-Violine, -Violoncello, -Oboe und -Fagott in B-dur (Hob. I/105) も作曲し、1792 年 3 月 9 日の Salomon’s Concerts に於いて初演された。作品は高評価で受け入れられたが、この時に Salomon は Violine-Solo 声部を演奏しており、その演奏に対しても高い評価が与えられている。

 London を訪れる前に既に Europe で大変高名になっていた Haydn の作品と演奏、及びそれを主催した Salomon の演奏会は大きな成功を収め、Salomon はこの時の Haydn の第 1 回目の London 滞在に続いてもう一度、Haydn を London に招聘する事を考えた。
第 2 回目の Haydn の London 滞在は 1794 年 1 月 5 日から翌年の 8 月 22 日に迄及び、この時にも Haydn は新たに Hob. I/99 から I/104 迄の 6 曲の Symphonie を London で完成させ、前半の 3 曲は前回と同様に Hanover Square Rooms に於いて、また後半の 3 曲は „Opera Concerts” という標題の演奏会の下 King’s Theatre に於いて、同じく Haydn の指揮によって初演された。

 Salomon はまた London に於ける 1813 年の、Philharmonic Society の創設にも携わっている。
この組織は定期的な演奏会の開催を通じて、可能な限り最良な器楽音楽を提供する事をその主な目的としており、同種のものとしては Leipzig の Gewandhaus-Konzertverein に次いで世界で 2 番目に古い。
その創設第 1 回目の演奏会は 1813 年 3 月 18 日に、London の Argyll Rooms に於いて開催されたが、その演奏会での指揮を Salomon は務めている。
1912 年以降 Royal Philharmonic Society と改称されたこの組織は、2011 年に Salomon Prize という賞を創設し、それ以来毎年英国内の優れた Orchester 奏者を対象に賞を授与している。

 Salomon は乗馬事故による怪我が原因で、1815 年 11 月 25 日に亡くなる。
その遺体は London の Westminster 寺院の南回廊に葬られている。

 

 


上部の写真:


Joseph Haydn が
London で作曲した
Symphonie in Es-dur, Hob. I/99


London で出版された
Salomon による
Sextett への編曲版の表紙

 

 

 

 

 

 

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