Kommentar 2017 Nr. 3

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Anton Diabelli

 

 

 

 

 

 

 


Ludwig van Beethoven とも親交のあった
Austria の作曲家
Anton Diabelli
について

 

 Anton Diabelli (1781-1858) は Aurolzmünster (1779 年迄 Bayern 選帝候領、同年の Bayern 継承戦争の終結に伴う Teschen の和約以降は Austria 大公国領) 出身の父 Nikolaus と、上部 (ob der Enns) Austria 侯国領 Grünbach の Moser 出身の母 Regina との間に、1781 年 9 月 5 日に Salzburg 大司教領内の Mattsee に於いて生まれる。
父親の本来の苗字は Dämon (独語で悪魔の意) であったが、それを Italia 語化した上で変化させて Diabelli としている。

 Anton Diabelli は修道院音楽家、及び聖具室係を生業としていた父親から声楽、鍵盤楽器や Violine の演奏等の最初の音楽教育を受ける。
彼が 7 歳の時に Salzburg から北に凡そ 30 ㎞ 程離れた所にある、Benedikt 派の Michaelbeuern 修道院の少年合唱隊員として受け入れられる。
その間にも Diabelli は音楽の基礎教育をそこで続けて受ける事が出来たが、その 2 年後の 1790 年には Salzburg 大聖堂の音楽家に迎え入れられた。

 Salzburg では 1763 年以来当地の宮廷音楽家で Konzertmeister、1777 年からは同地の三位一体教会の Organist、また 1781 年に Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) が Salzburg を去ってからは、その後任として宮廷及び大聖堂の Organist に就任していた Michael Haydn (1737-1806、Joseph Haydn の弟) より、演奏技術に関する訓練と同時に、音楽理論に関する教育も受ける事が出来た。

 将来は司祭になって欲しいという親の希望に従って、Diabelli は 1796 年に München に行き、高等 Latin 語学校の Wilhelmsgymnasium に入学する。
その後彼が 19 歳になる 1800 年に、Diabelli は神学の勉強を更に続ける為に、上部 Bayern にある Cîteaux 派の Raitenhaslach 修道院に入る。
しかしそこに於いても Diabelli の音楽の勉強と、Michael Haydn との子弟関係はは継続され、その間数多くの作品が作曲されている。

 1803 年の Bayern 公国を含む神聖 Roma 帝国内全域で実施された、聖界諸侯及び教会領の世俗化によって、Diabelli がその後聖職に就く道は絶たれ、Raitenhaslach を去らざるを得なくなる。
そこで Diabelli は Michael Haydn からの推薦を得て、Joseph Haydn (1732-1809) の下で作曲を学ぶ事を求めて Wien に赴く。
Wien で Diabelli は間も無く Klavier や Guitar の教師としての活動の場を見出し、その名が広く知られる様になった。

 Diabelli は Wien に於いて作曲活動と同時に、次第に音楽出版業に関する活動も始め、その最初期には Ludwig van Beethoven (1770-1827) との関係の深い Wien の出版社、S. A. Steiner und Comp. の校閲係を務めた。
Beethoven はこの頃 Diabelli の事を諧謔的に 「我々の総監事、そして Diabolus Diabelli」 (diabolus は Latin 語で悪魔の意) と呼んでいた。

 1818 年にはそれ迄の教授活動等で得た資金を基に、Lombardia の Como 湖の生まれで、1792 年に Wien に移り住んで出版社の Artaria で働いていた Pietro Cappi (1779-1826) と共に、音楽出版会社 Cappi & Diabelli を設立する。
1820 年に Cappi & Diabelli は、Wien の音楽出版社 Johann Traeg を吸収合併するが、 1823 年に Diabelli はこの出版社から離れ、翌年に単独で Diabelli & Comp. を設立する。

 この Diabelli & Comp. にはその数箇月後に、営業面を担当する事になる Anton Spina (1790-1857) が入社し、Diabelli は芸術面の責任者となった。
この Diabelli & Comp. はその後 1833 年から翌年に掛けて、Wien の同じく音楽出版社 Anton Pennauer や Sauer & Leidesdorf、又 Mathias Artaria を吸収合併して大躍進を遂げる。

 1819 年に Diabelli は „Vaterländischer Künstlerverein” (祖国芸術家協会) という名前で楽譜を出版する為に、自作の Walzer を Thema にした Klavier の為の変奏曲の作曲を、Austria 中の名のある作曲家、又は作曲もする演奏家に対して依頼し募った。
それに対して作品を以て答えた Austria の出身、又はその当時 Austria で活動していた音楽家は、Ludwig van Beethoven を含めて合計 51 人に及んだ。

 Diabelli は各人夫々 1 曲の変奏曲の作曲を依頼したが、例外的に数多くの変奏曲を書いた Beethoven による 33 Veränderungen in C-dur über einen Walzer von Anton Diabelli (op. 120) は、1823 年になって漸く全曲が完成し、この曲だけが独立して先ず „Vaterländischer Künstlerverein” 第 1 巻として、同年 6 月に Cappi & Diabelli より出版された。
それに続いて同年末、或いは翌年初旬に、それ以外の 50 人の作曲家による 50 の変奏曲と、最後に Beethoven の数少ない生徒の一人の Carl Czerny (1791-1857) による Koda を付けて、この時点では既に Diabelli が単独で経営していた Diabelli & Comp. より、同第 2 巻として出版された。

 第 2 巻で出版された変奏曲の 50 人の作曲者の内、主な者には Carl Czerny の他に、Emanuel Aloys Förster (1748-1823)、Wolfgang Amadeus Mozart の生徒の Franz Jakob Freystädtler (1761-1841)、Johann Baptist Gänsbacher (1778-1844)、Johann Nepomuk Hummel (1778-1837)、Anselm Hüttenbrenner (1794-1868)、Friedrich Kalkbrenner (1785-1849)、Franz Liszt (1811-1886)、Ignaz Moscheles (1794-1870)、Wolfgang Amadeus Mozart の息子の Franz Xaver Wolfgang Mozart (1791-1844)、Franz Schubert (1797-1828)、Simon Sechter (1788-1867)、Beethoven の生徒であった Austria大公 Rudolf (1788-1831)、Maximilian Stadler (1748-1833) 等がいる。

 Diabelli が変奏曲を募った時点では未だ 7 歳、出版の時期でも 12 歳であった Franz Liszt は、その師の Carl Czerny を通して Diabelli の依頼を受け、作曲した変奏曲が第 2 巻に含まれている。

 

 


上部の写真:


Diabelli & Comp.
より出版された
„Vaterländischer Künstlerverein”
第 2 巻の表紙

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.