Kommentar 2017 Nr. 4

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Emanuel Aloys Förster

 

 

 

 

 

 

 


18 世紀から 19 世紀への変わり目の時期を中心に
Wien で活躍し
Ludwig van Beethoven とも親交のあった
作曲家
Emanuel Aloys Förster
について

 

 Emanuel Aloys Förster (1748-1823) は、Glatz 伯爵領 Niedersteine の領地管理人を務めていた Anton Ludwig Förster と、その妻の Anna Maria との間に、同地に於いて 1748 年 1 月 26 日に生まれる。
現在 Niedersteine (Ścinawka Dolna) は Czech 共和国との国境に近い、Poland 共和国の南西部端に位置する。

 Emanuel Aloys Förster は Niedersteine の教区学校を卒業した後、Niedersteine から北西に凡そ 15 ㎞ 程離れた、現在は Czech 共和国内に位置する、Braunau 修道院の Latin 語 Gymnasium に通う。
その頃から既に Förster の音楽的才能は認められ始め、修道院長 Friedrich Grundmann (1752−1772) の計らいによって、専門の教員による音楽の授業を受ける事が出来る生徒の一人に加えられていた。

 1764 年に Braunau の Gymnasium を卒業してからは、Vetter von der Lilien 伯爵 Karl Josef Franz Felix Fortunat (1719-1792) に仕えていた父親と共に、Niedersteine の領地管理部門の仕事に加わるが、1763 年に 7 年戦争を終結させた Hubertusburg の和議によって、それ以前は Bohemia 王国領で実質的には Habsburg 家の支配下にあった、Niedersteine を含む Glatz 伯爵領は、それ以降 Preußen 王国の領地となった。
その為に Förster は 1766 年から 1768 年迄、Preußen 王国の将軍 Heinrich August de la Motte Fouqué (1698-1774) の指揮する、歩兵連隊に於いて兵役を務める事となったが、そこでは軍楽隊に配属されて Oboe 奏者として勤めている。

 兵役の終了後 Förster はその後の人生を音楽家として過ごす事を決心し、その年から Mittelwalde (現在は Poland 共和国の Międzylesie) の Orgel 奏者で音楽理論を教えていた、Johann Georg Pausewang (1738-1812) の下で音楽の勉強を続ける。
1776 年から 3 年の間 Praha に滞在した期間を経て、1779 年に Wien に移り住み、そこで作曲家及び音楽教育者としての活動を始める。
但し 1823 年 11 月 12 日に同地に於いて Förster が亡くなる迄の間、彼は作曲家や教育者としての定まった地位には就いていない。

 Wien では Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) や Joseph Haydn (1732-1809) と親交を結び、また貴族子女の Eleonore von Reczka († 1852) との結婚によって Wien の貴族社会との繋がりを得て、その一人であった Karl Alois Lichnowsky 侯爵 (1761-1814) の下では、Ludwig van Beethoven (1770-1827) と知り合う事となる。
Beethoven は Förster の作品と Wien に於ける彼の音楽活動を高く評価しており、Andrej Kirillovič Razumovskij 伯爵 (1752-1836、1815 年以降侯爵) や、Charles Neate (1784-1877) 等を Förster に紹介して、彼等への音楽教授を依頼している。

 Förster の代表的理論書の一つ、„Anleitung zum General-Baß mit geschriebenen Notenbeispielen” (譜例付き通奏低音奏法の指導書) は、Beethoven から個人的に促された結果、1805 年に Leipzig の Breitkopf & Härtel 社より出版される運びとなったが、当時評判となったこの理論書はその後 1858 年迄の間に 3 回再版されており、また Czech 語に翻訳された版も 2 回出版されている。

 Förster の音楽理論と音楽教育関係の成果の他に作曲された作品では、その殆どが出版された主要なものだけでも 23 曲の Konzert für Klavier und Orchester、3 曲の Trio für Klavier, Violine und Violoncello、6 曲の Quartett für Klavier, Violine, Viola und Violoncello、10 曲の Sonate für Violine und Klavier、48 曲の Quartett für Streicher、4 曲の Quintett für Streicher、5 曲の Konzert für Oboe und Orchester 等を始めとする数多くの作品が残されている。

 また Förster は Anton Diabelli (1781-1858) が Wien に於いて 1819 年に、„Vaterländischer Künstlerverein” (祖国芸術家協会) という名前で楽譜を出版する為に、自作の Walzer を Thema にした Klavier の為の変奏曲の作曲を、Austria 中の音楽家に依頼した際に、作品を以てそれに答えた作曲家の一人に加わっている。

 Förster と Eleonore の間には 5 人の子供が生まれたが、1799 年に生まれたその長女で母親と同名の Eleonore は、父親から音楽の教育を受け、1817 年から 1823 年に Conti 伯爵と結婚する迄の間、Wien に於いて作曲も出来る成功した Klavier 奏者の一人として活動していた。
その娘の Eleonore よりも 1 歳若い、1800 年生まれの長男 Joseph も、Klavier と Violoncello の奏者及び作曲もする音楽家となったが、彼が若い時には Beethoven が暫くの間教えていた事があった。

 

 


Anton Diabelli
及びその
„Vaterländischer Künstlerverein”
に関しては
[Archiv / Kommentar 2017 Nr. 3] を参照

 

 


上部の写真:


Braunau にある
Benedikt 派の修道院

後に Gymnasium となる Latin 語学校は
この修道院内に 14 世紀に創設される


Förster は
ここで最初の音楽の専門教育を受けた

 

 

 

 

 

 

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