Kommentar 2017 Nr. 5

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 1

 

 

 

 

 

 

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Antonio Salieri (1750-1825) は Venezia 共和国の城塞都市 Legnago に於いて、裕福な商人で同名の Antonio Salieri (1702–1764) と、その妻 Anna Maria Scacchi (1722/23–1763) の第 8 子として、1750 年 8 月 18 日に生まれる。
Salieri は Latin 語学校に通っていた時期に、Giuseppe Tartini (1692-1770) に教えを受けた事のある兄の Francesco より Violine を、また Legnago の司教座聖堂の Orgel 奏者 Giuseppe Simoni に鍵盤楽器の奏法を学ぶ。
Giuseppe Simoni は 18 世紀の重要な音楽理論家の、Giovanni Battista Martini (1706-1784) の後継者となった、Stanislao Mattei (1750-1825) の生徒の一人。

 13 歳の時に母親を、翌年には父親を失って孤児となってしまった Salieri は、その翌年の 15 歳の時に Padua を経由して Venezia に行く。
そこで彼は Giovanni Mocenigo に生活の面倒を見て貰い、更に Tenor 歌手の Ferdinand Pacini から声楽を、また作曲家の Giovanni Battista Pescetti (1704-1766) から作曲技法を学ぶ事が出来た。

 Salieri が更なる勉学の為に Napoli への遊学を計画し、その出発が目前に迫っていた 1766 年に、彼は Venezia に於いて Austria の作曲家 Florian Leopold Gaßmann (1729-1774) と知り合う。
Gaßmann は嘗て、上記の Giovanni Battista Martini が Bologna に創設した音楽学校、„Liceo Musicale di Bologna” で学んでおり、その後 Venezia に於いて女子修道院の Orgel 奏者を、また 1757 年からは女子音楽院の合唱指揮者を務め乍ら、毎年謝肉祭の時期用に Oper の作曲を行っていた。
Gaßmann はその後 Wien へ移り、彼が Venezia で Salieri と出会った時点では、Wien に於いて皇帝 Franz I. Stephan (1708-1765) の宮廷作曲家を務めていた。
Gaßmann はその時 Napoli へ旅立つ直前の Salieri を Wien へ誘い、Salieri は彼に従って Napoli への遊学は急遽中止して、同年 6 月に Wien へ移る。

 Wien で Gaßmann はその生涯に亘って Salieri に対し、実の息子の様に接した。
その時代の代表的な音楽教育書であった、Austria の作曲家兼音楽理論家の Johann Joseph Fux (ca. 1660-1741) による „Gradus ad Parnassum” (1725)、及び Venezia の Basilica di San Marco の楽長で Italia の理論家兼作曲家であった、Gioseffo Zarlino (1517-1590) による „Le istitutioni harmoniche” (1558) を用いて、Gaßmann は Salieri に対して対位法と作曲技法の教授を行った。
Gaßmann は更に、Salieri が Violine と通奏低音の奏法に関しては、現在に迄名前の伝わらなかったある Bohemia の音楽家の下で、また独語、仏語、Latin 語については Pietro Tommasi の下で学ぶ事が出来る様に計らった。

 1767 年に Salieri は、当時永らく Wien の宮廷詩人の地位にあり、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) を始めとする延べ 46 人の作曲家達によって、Oper として作曲された „La clemenza di Tito” の作詞者として著名な、Italia の詩人で台本作家の Pietro Metastasio (1698-1782) との見識を得、Salieri は彼から劇的朗誦方を学ぶ。
その同年に Salieri は 4 声部の無伴奏合唱の為の „Messe in C-dur (Missa stylo a cappella)” を以て、教会音楽作曲家として Wien の公の場に初登場する。

 1769 年にはそれ以降生涯に亘って、Salieri の親密な友人で且つ後援者となった Christoph Willibald Gluck (1714-1787) と知り合う。
Gluck は Wien に於いて 1754 年から、Sachsen-Hildburghausen 公国の摂政王子で、また Habsburg 家の皇帝及び神聖 Roma 帝国の総元帥を務めていた、Joseph Friedrich von Sachsen-Hildburghausen (1702-1787) の宮廷楽長の地位にあった。

 Gluck と知り合った 1769 年の秋に Salieri は、Wien の宮廷劇場で上演される Oper の練習を任されてそれを行った。
その翌年の 1 月 10 日に Wien の宮廷劇場に於いて、3 幕の Commedia per musica „Le donne letterate” が、またそれに続くその年の謝肉祭の期間中に同じく宮廷劇場に於いて、2 幕の Pastorale per musica „L’amore innocente” が初演されて、Salieri は Wien に於いて Oper の作曲家としても登場する事になる。

 Salieri の最初の Oper となった „Le donne letterate” は、France の俳優で劇作家の Molière (1622-1673) による喜劇 „Les femmes savantes” (教養ある女性達、1672) に基づいて、Italia の作曲家 Luigi Boccherini (1743-1805) の兄の、台本作家で詩人の Giovanni Gastone Boccherini (1742-1798) が、Oper 用の台本に書き直したもので、元来その作曲者としては、1764 年以来 Wien で皇帝の宮廷作曲家の地位にあった Florian Leopold Gaßmann が考えられていたが、丁度その時期に Gaßmann は旅行に出ていたので、その生徒の Salieri にその台本が渡されて彼が作曲する運びとなった。
Salieri にとってはこの作品が、それ以降に彼が音楽界で積み上げていく経歴の礎石となった。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 2«
[Archiv / Kommentar 2017 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


1725 年に
Wien に於いて出版された
Johann Joseph Fux による
Gradus ad Parnassum の
初版表紙


Parnassum は
ギリシャ中央部に位置する標高 2,455m の山
その麓に Delphi がある
神話によれば
Parnassum は Apollon に捧げられ
そこには芸術を司る Muse 達が住む

Gradus は階段の意


Gradus ad Parnassum は
この時代の代表的教育書で
速やかに Europe 中に広まって
各国語に翻訳されている

Wien の前期古典派には特に強い影響を与えた

 

 

 

 

 

 

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