Kommentar 2017 Nr. 8

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 4

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 3«
[Archiv / Kommentar 2017 Nr. 7]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 1784 年 4 月 26 日に Opéra de Paris に於いて行われた Tragédie lyrique „Les Danaïdes” の初演、及びそれに続く公演に於いて大きな成功を収めた Antonio Salieri (1750-1825) は、その初演に同席した France 国王妃 Marie Antoinette (1755-1793) より贈答された 3,000 Livre を含めて、合計 12,000 Livre の報酬を手にして同年 7 月に Wien に戻る。
12,000 Livre という報酬は、当時の Salieri が Wien の Italia 語 Oper 劇場の楽長職から得る年収の、2 倍を超す大変大きな金額であった。

 Wien に戻った Salieri は、Paris に行く以前から着手していた次の作品、3 幕の Dramma giocoso „Il ricco d’un giorno” (一日成金) の作曲の作業を進める。
この作品の台本作者は、Salieri との共同作業は今回が初めてとなる Lorenzo Da Ponte (1748-1838) であった。

 Venezia 共和国の Cèneda 出身の Lorenzo Da Ponte は、1773 年 3 月に司祭への叙階を受けてその年の秋に移り住んだ Venezia で、文学や劇場の分野に於いて有力な貴族や名門家庭の為に活動していた、台本作家で詩人の Caterino Mazzolà (1745-1806) と Memmo 家の Salon で知り合い、その後この両者は親交を結ぶ事になる。

 その後 Caterino Mazzolà は Antonio Salieri より Opera buffa の為の台本執筆の依頼を受け、それに Salieri が作曲して完成された作品、Dramma giocoso „La scuola de’ gelosi” (嫉妬の学校) は、1778 年 12 月 27 日に Venezia の Teatro San Moisèに 於いて初演され、Salieri の生前中は Italia 内の諸都市や、それ以外の国々に於いても人気を継続して博す成功作の一つとなった。

 その 2 年後の 1780 年に Mazzolà は、1772 年以来 Sachsen 選帝侯国の宮廷教会音楽作曲家で、後に宮廷楽長となる Joseph Schuster (1748-1812)、及び Antonio Salieri の推薦によって、Sachsen 選帝侯 Friedrich August III. (1750-1827) の下で、宮廷詩人として採用される。

 その翌年の 1781 年に Caterino Mazzolà は、1779 年 12 月に既婚女性との不義密通の罪によって、Venezia から 15 年間の追放刑を受けた親友の Lorenzo Da Ponte の為に、彼を Salieri に紹介して推薦している。
Salieri は Mazzolà から推薦されたその Da Ponte を、更に皇帝 Joseph II. (1741-1790) に推薦し、その結果 1783 年に Lorenzo Da Ponte は、1776 年に一度閉鎖された後その年に再開される事となった、Wien の Italia 語 Oper 劇場に所属する帝室詩人として採用される事になった。

 Joseph II. は非常に寛大に Da Ponte の宮廷劇場への採用を決定したが、それ以前に彼は劇作品の台本を書いた経験は全く無く、彼はこれ以後先ずはその時代の代表的な劇作品の台本の勉強に沈潜する事になる。
これを経て彼が書き上げた 1 作目の劇作品が、上記 3 幕の Dramma giocoso „Il ricco d’un giorno” で、Salieri がその台本に作曲をして、1784 年 12 月 6 日に Wien の Burgtheater (宮廷劇場の一つ) に於いて初演される運びとなった。

 当時の Wien では、1729 年から宮廷詩人を務めていた Pietro Metastasio (1698-1782) が 1782 年に 90 歳で亡くなってい以来、宮廷詩人の地位が空席のままになっており、丁度この頃から Wien で劇作家の活動を開始していた、Italia 人の詩人で台本作家の Giovanni Battista Casti (1724-1803) と Lorenzo Da Ponte との、この地位を巡る確執が始まっていた。
1784 年末の Da Ponte と Salieri による „Il ricco d’un giorno” の初演は、当時の聴衆からの拍手喝采を得る事は叶わず、6 回の公演を以て劇場の演目から外され、それ以後は二度と演奏される事が無かったという惨めな結果に終わったが、Da Ponte はその原因を Casti が主導した権謀術数によるものだと考えた。

 一方 Salieri はこの作品の主人公 Emilia の作曲に当たって、在 Venezia の皇帝の大使で、嘗て Wien の宮廷劇場の総監督を務めていた Giacomo Durazzo 伯爵 (1717-1794) の推薦によって、1783 年以来 Wien の宮廷劇場に於いて異例の高給で雇われている、Soprano 歌手の Nancy Storace (1765-1817) を念頭に置いていた。

 彼女はその年に再開された Wien の Italia 語 Oper 劇場の開幕公演で演奏された、Salieri による上述の Dramma giocoso „La scuola de’ gelosi” の、伯爵夫人 Bandiera の役を歌って Wien の début を飾っているが、今回の „Il ricco d’un giorno” ではその Emilia の声部が自分には合わないという理由で、公演の直前になって出演を辞退している。
時間的な問題もあり、この Nancy Storace の代役に相応しい歌手を見出す事が出来無かったというのが、この作品中には Salieri の作曲による何曲もの成功した曲があったにも拘らず、公演全体としては大失敗に終わった原因の一つであったと考える事が出来る。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 5«
[Archiv / Kommentar 2018 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


1784 年に
„Les Danaïdes” の公演が成功裏に行われた頃の
Opéra de Paris
の公演会場となっていた
Théâtre de la Porte Saint-Martin


その頃の Opéra de Paris の名称は
„Académie royale de musique”


それ迄 Académie royale de musique の公演会場であった
Palais-Royal が
1781 年 6 月 8 日に焼失してしまったために
Samson Nicolas Lenoir (1733-1810)
の設計によって
Saint Martin 大通りに
急遽 75 日間で建設された


杮落しは
Niccolò Piccinni (1728-1800) の作曲による
Tragédie lyrique „Adèle de Ponthieu”
を以て
1781 年 10 月 27 日に行われた


客席は 1,800 席有り
当時の Paris では最も大きな劇場であった

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.