Kommentar 2018 Nr. 1

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 5

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 4«
[Archiv / Kommentar 2017 Nr. 8]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 1781 年 6 月に Salzburg 大司教侯爵 Hieronymus von Colloredo-Waldsee 伯爵 (1732-1812) の勤めから漸く解放されて、自由な作曲家という身分で Wien に住むようになった Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) にとって、先ず必要なのは出来るだけ早く安定した収入の道を確保する事であった。
それには作曲の依頼者を見付けたり、自身の演奏会を開催する等が音楽的に重要な方法となっては来るが、差し当たっては Klavier を貴族の子女に教えるというのが、より速やかで現実的な収入に繋がり易い。

 Mozart が Salzburg を去って Wien に最終的に出る前年の 1780 年 11 月 29 日に、それ迄皇帝 Joseph II. (1741-1790) の共同統治者として、Habsburg 王朝の世襲領地を統治して来たその母、Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) が亡くなる。
母とはしばしば考え方が相入れない事があったが、漸く単独統治が出来るようになった Joseph II. は、既に 2 人の皇妃を天然痘で失い、男性の世継ぎを持たなかったにも関わらず、更なる 3 度目の結婚に踏み切る気は全く持っていなかった。
その為に、自身が亡くなった後の皇帝位の継承の問題を事前に解決しておく為に、帝位継承者の可能性に関する詳細な調査を、Colloredo-Waldsee 伯爵 Franz de Paula Karl (1736-1806) に命じる。

 Colloredo-Waldsee 伯爵によるその報告の結果 Joseph II. は、帝位の後継者として先ずは 6 歳年下の弟、Toscana 大公 Peter Leopold (1747-1792) を定め、更に Leopold の長男の Franz Joseph Karl 大公 (1768-1835) を、その父に続く後継者と定めた。
Franz Joseph Karl 大公はその家族と共に Toscana 公国に暮らしているので、彼を将来の後継者に定めるに当たっては、Joseph II. が自身で Toscana 公国に赴いて、Franz Joseph Karl を自身の目で見定めるという事を行っている。

 Franz Joseph Karl が 伯父の皇帝によって、その将来の後継者となる事を定められると、早速帝王学に基づく教育が先ずは生まれ育った Firenze に於いて開始されたが、Joseph II. は更に Franz Joseph Karl が未だ 16 歳であった 1784 年に、その教育を Joseph II. の望む様な形で完成させる為に、甥を家族から離して一人 Wien に呼び寄せ、早速数多くの帝室の公式行事に参加させて、その教育を積極的に推し進めた。

 これ等に加えて更に Joseph II. は、甥 Franz Joseph Karl の配偶者と成るべき人物を探す事も同じ頃に始め、その結果 Württemberg 公爵 Friedrich Eugen (1732-1797) の 娘 Elisabeth Wilhelmine Louise von Württemberg (1767–1790) を、Franz Joseph Karl の将来の妃と定める。

 Elisabeth Wilhelmine Louise の姉の Sophie Dorothee von Württemberg (1759–1828) は、1776 年にその時点では皇太子で、後の 1796 年に Pawel I. として Russia 帝国皇帝に即位する、Pawel Petrowitsch (1754-1801) の 2 人目の妃として結婚しており、その妹の Elisabeth Wilhelmine Louise は Joseph II. にとって、政治上大変関心を引く存在であったというのが、この決定の第一の理由として考える事が出来る。

 Elisabeth Wilhelmine Louise は Franz Joseph Karl と同様に、未だ 15 歳であった 1782 年に、Joseph II. によって Wien に移る事を求められ、Wien の Orden von der Heimsuchung Mariens (聖母訪問修道会) の修道院に於いて、将来皇帝妃となる事を見据えた教育が施される事となった。
現在 Wien 市内第 3 区の Rennweg に、現在に至る迄その多くの部分が元の状態のままで保たれているこの修道院は、Joseph II. の大伯父に当たる元皇帝 Joseph I. (1678-1711) の未亡人、Wilhelmine Amalie von Braunschweig-Lüneburg (1673-1742) の寄付によって、彼女自身がここで余生を過ごし、また貴族の若い子女達に教育の場を提供する事を目的として、1719 年に創設された。

 Elisabeth Wilhelmine Louise はここで 1782 年 12 月にカトリックに改宗しているが、その教義の教育に関しては、Wien の王宮神父であった Alois Langenau (1747-1809) が担当している。
Joseph II. は細心の注意と愛情を以て、この将来の甥の配偶者 Elisabeth Wilhelmine Louise に対して接したと伝えられている。

 この頃というのは、Wolfgang Amadeus Mozart が Salzburg の大司教との関係を断ち切って、Wien に住み始めて未だ余り間が無く、収入の道が不安定な状態にあったのは無理も無く、そのために Wolfgang Amadeus Mozart は、自身よりも少しだけ遅れて新たに Wien に移って来た、Elisabeth Wilhelmine Louise の Klavier の教師という、Wien に於ける宮廷の公式な地位を求めてこの職に応募している。

 この時に同じ仕事を求めて Wolfgang Amadeus Mozart にとっての競争相手となったのが、Antonio Salieri (1750-1825) であった。
この時両者の間に個人的な競争意識があったかどうかは定かでは無いが、Wien の音楽界に於いて互いに相手を意識する事が、少なくともこの時には始まっていたという事は明らかに考える事が出来る。

 未だ 16 歳であった 1766 年以来 Wien に於いて暮らし、この時点では Wien の宮廷作曲家の地位を占めていた Antonio Salieri は、教育の面のみに限っても例えば、当時の最も有名で最も報酬額の高い Soprano 歌手の一人として、Wien に於いて活躍していた Catarina Cavalieri (1755-1801) を始めとして、Antonio Salieri 自身が教育者としても既に大きな成功を収めていた。
それに対して一方 Wolfgang Amadeus Mozart の方は Wien に出て間も無く、何人かの未だ成果も定かでは無い生徒を持っているのみであった。

 Elisabeth Wilhelmine Louise は、単に何れ Habsburg の帝室一家の一員となるというだけでは無く、将来皇妃となる事が定められているという重要さからも、この時点で彼女の音楽の教師として Antonio Salier を選んだ Joseph II. の決定は、至極当然の結果という事が出来る。

 後の 1788 年 1 月 6 日に、Franz Joseph Karl 大公と Elisabeth Wilhelmine Louise は予定通り結婚する。
また 1790 年 2 月 20 日に Joseph II. が亡くなると、Franz Joseph Karl 大公の父親の Peter Leopold 大公が、Leopold II. として皇帝位に就くものの、早くもその 2 年後の 1792 年 3 月 1 日に急死してしまい、Franz Joseph Karl 大公は、神聖 Roma 帝国最後の皇帝 Franz II. として、その戴冠式が同年 7 月 14 日に Frankfurt am Main に於いて行われて即位した。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 6«
[Archiv / Kommentar 2018 Nr. 2]
へ続く

 

 


このページ上部の写真:


1792 年 7 月 14 日に
Frankfurt am Main の
皇帝大聖堂
St. Bartholomäus
に於いて行われた
Franz II. の
神聖 Roma 帝国皇帝への戴冠式


Franz II. に重用され
後の 1833 年に Wien の宮廷画家となった
Austria の画家で版画家
Johann Nepomuk Hoechle (1790-1835)
の原画に基づく
Franz Wolf (1795-1859) による
彩色石版画

1835 年制作

 

 

 

 

 

 

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