Kommentar 2018 Nr. 8

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 12

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 11«
[Archiv / Kommentar 2018 Nr. 7]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 皇帝 Joseph II. (1741-1790) が妹の Austria 大公女 Maria Christina (1742–1798) とその配偶者の Teschen 公爵 Albert Kasimir von Sachsen (1738-1822) の夫妻を Wien に招いた機会に、Schönbrunn 宮殿の Orangerie に於いて 1786 年 2 月 7 日に催した „Frühlingfest an einem Wintertage” (冬の日の春の祝宴) の場で、Wien の貴族達を前にして Antonio Salieri (1750-1825) による Divertimento teatrale „Prima la musica poi le parole” (最初に音楽、それに次いで言葉) と、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の Singspiel „Der Schauspieldirektor” (劇場支配人、KV 486) の両作品が上演された時期は、Mozart にとっては Opera buffa „Le nozze di Figaro” の作曲で多忙にしていた頃であった。

 この Opera buffa の台本は、Antonio Salieri の皇帝 Joseph II. への紹介によって、1783 年から Wien の Italia 語劇場の帝室詩人に採用されていた Lorenzo Da Ponte (1749-1838) が書いたが、その原作としては France に於いて劇作家としても活動していた、Pierre Augustin Caron de Beaumarchais (1732-1799) による „La Folle Journée, ou le Mariage de Figaro” (狂気の日、又は Figaro の結婚) に拠っている。

 Beaumarchais によるこの喜劇は 1778 年に完成し、1784 年に Paris の Théâtre de l’Odéon に於いて初演された作品だが、翌 1785 年の始めに Austria の風刺作家の Johann Rautenstrauch (1746-1801) によって独語に翻訳され、後に Mozart との共同作業を行う事になる Emanuel Schikaneder (1751-1812) の率いる劇団によって、同年 2 月 3 日に Wien の Theater am Kärntnertor に於いて上演される予定となっていた。

 しかし Almaviva 伯爵の不道徳を描いて貴族支配を風刺する内容であったこの作品は、予定されていた上演が検閲当局によって禁止されるという結果になったが、一方その台本の出版に関しては禁止されるという事が無く、同月の 28 日から 3 日間に亘って „Das Wienerblättchen” 紙上に於いてその抜粋が掲載されたのを始めとして、間も無くその全編や更なる翻訳版も出版されて、次第に人々に知られる様になっていた。

 この作品を基にして Opera の制作を行うという案は、後の Da Ponte の回想録に拠れば Mozart 自身の発想であった様だが、皇帝 Joseph II. によって任命された侍従長官で、その職務によって帝室王室宮廷劇場の監督も担っていた Franz Xaver Wolfgang von Orsini-Rosenberg 伯爵 (1723-1796) と、彼のお気に入りであった Italia の詩人で劇作家の Giovanni Battista Casti (1724-1803) を中心とする一派が強く上演に反対していた為に、Da Ponte と Mozart による Opera としてのこの作品が、Beaumarchais による演劇版には対置するものである事を Da Ponte が皇帝に直接説明するという事を行ったり、また Mozart が Joseph II. の前で作品中の何曲かを演奏して事前に披露する等をして、その上演反対を回避する為の努力をしている。

 Da Ponte は Beaumarchais による原作と比較して、道徳的風刺の部分を緩め、Wien の宮廷では理解され難い様な内容の部分を取り除き、またその複雑であった筋書きについても理解し易いものにする等の改変を行って、最終的には皇帝の許可を獲得し、1786 年 5 月 1 日に Wien の Burgtheater に於いて „Le nozze di Figaro” は初演を迎える事が出来た。
Mozartはその際にCembaloで通奏低音を演奏し乍ら公演の指揮を行っている。

 この際の Joseph II. の許可を得て宮廷劇場での初演に至る迄の間に限らず、その後の再演の期間中に於いても „Le nozze di Figaro” に対する権謀術数が行われたという記録が残されているが、その派閥に Antonio Salieri も加担していたという、当時の宮廷劇場に関わった人々の回想に基づく言及に関しては、慎重に取り扱う必要がある。
そもそもそういう風評が広まる前提として、前述の 1786 年 2 月 7 日に Orangerie に於いて行われた祝宴の場に於ける、Antonio Salieri と Wolfgang Amadeus Mozart による夫々の舞台作品の上演を、Joseph II. がその両者の作曲家のどちらがより優れているのかを貴族達の前で見極めさせる事を目的に企画したという考え方がある。
しかし実際に Joseph II. が意図したのは両作曲家の技量の比較では無く、当時の舞台音楽作品という観点から Salieri に委嘱した伊語による Oper と、同じく Mozart が音楽を担当した独語による Singspiel を、当時の Wien の有力貴族達の前で比較鑑賞し、ひいては Joseph II. がその頃に目指していた、伊語による Oper に対する独語の Singspiel の優勢へと導きたいという事であった。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 13«
[Archiv / Kommentar 2019 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


帝室王室国民宮廷劇場 (Burgtheater)
に於ける
„Le nozze di Figaro” の
初演時の Poster

「伊語による Singspiel」
と記載されている

開演は 18 時半

 

 

 

 

 

 

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