Kommentar 2019 Nr. 1

 

 

 


Ludwig van Beethoven


und


seine Zeit

 

 


Antonio Salieri

 


Teil 13

 

 

 

 

 

 

 


»Antonio Salieri Teil 12«
[Archiv / Kommentar 2018 Nr. 8]
より続く

 


Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について

 

 Lorenzo Da Ponte (1749-1838) の台本と Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の音楽による Opera buffa „Le nozze di Figaro” (KV 492) は 1786 年 5 月 1 日に、Wien の Burgtheater に於いて初演を迎える事が出来たが、その初演やまたそれ以後の公演に際しても、或る一派によってこの作品に対する様々な権謀術策が行われた事が伝えられている。そして Antonio Salieri (1750-1825) がその派閥に加わっていたという説や考えも少なからず公開されているが、実際に Salieri がこれに関与していたという証となるものは発見されていない。

 但し „Le nozze di Figaro” に対する妨害行為が行われたというのは事実で、その背景には何よりも Lorenzo Da Ponte と、同じく Italia の詩人で台本作家の Giovanni Battista Casti (1724-1803) との間の確執があった。
Lorenzo Da Ponte は Salieri の紹介と推薦によって 1783 年に皇帝 Joseph II. (1741-1790) より、その年に再開される事となった Wien の Italia 語劇場の帝室詩人に採用されて、台本作家としての活動を Wien に於いて開始していた。
一方 Giovanni Battista Casti もその翌年の 1784 年に Wien に移り住んで台本作家としての活動を始めており、翌 1785 年には Salieri による Dramma giocoso „La grotta di Trofonio” (Trofonius の洞窟) の台本の執筆を担当している。この作品は同年 10 月 12 日に Wien の Burgtheater に於いて初演され、前例の無い程の大きな成功を収めている。

 Lorenzo Da Ponte が Wien の Italia 語劇場の帝室詩人として採用される以前に、彼には劇作品の台本を書いたという経験は無く、従って Joseph II. によるこの役職への採用は非常に寛大のものであったと考えざるを得ないが、それ以後 Da Ponte は当然の事乍ら先ず集中的に台本執筆の為の勉強を始め、その第 1 作として Salieri による 3 幕の Dramma giocoso „Il ricco d’un giorno” (一日成金) の台本を書く事となった。しかし 1784 年 12 月 6 日に Wien の Burgtheater に於いて行われたこの作品の初演は大きな失敗に終わる。
この時の失敗の原因は Lorenzo Da Ponte にあったと言うよりもそれとは別に、初演に参加した主役の歌手の事情にあったという方が大いに考える事が出来るが、Da Ponte はそうは考えず、自分に敵対する Casti の権謀術数によるものだと強く信じた。

 この頃の Wien では、1729 年に Apostolo Zeno (1668-1750) の後任として就任して以来、50 年以上の長期間に亘って Wien の宮廷詩人を務めていた Pietro Metastasio (1698-1782) が 1782 年に 84 歳で亡くなり、Wien の宮廷詩人の地位がそれ以降空席のままになっていた。丁度その様な時期に Wien に於いて劇作家としての活動を開始していた Da Ponte と Casti によるこの地位を巡っての確執が始まっていたというのは事実であった。

 „Il ricco d’un giorno” が大きな失敗に終わってしまった次の舞台作品の台本作者として Salieri が選んだのが、Da Ponte と敵対関係にあった Casti であり、その結果生まれたのが上述の „La grotta di Trofonio”であったが、この作品は Da Ponte との共作になる前作とは対照的な大成功を収める事となった。
更にそれに次いで皇帝 Joseph II. の依嘱による作品の為の台本作者として Salieri が選んだのも Casti で、その結果生まれたのが Divertimento teatrale „Prima la musica poi le parole” (最初に音楽、それに次いで言葉) であり、この作品は 1786 年 2 月 7 日に Wien 郊外の Schönbrunn 宮の Orangerie に於いて、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) による Singspiel „Der Schauspieldirektor” (劇場支配人、KV 486) と共に初演を迎えた。

 この 2 作品が初演された 1786 年の 5 月 1 日に、Mozart による 4幕の Opera buffa „Le nozze di Figaro” が Wien の Burgtheater に於いて初演されたが、その初演とそれ以後の公演に対する妨害行為に Salieri が実際に加担していたという記録は、当時の宮廷劇場関係書の後の時代になってからの回想以外には発見されていない。

 この時に実際に „Le nozze di Figaro” に対する妨害行為を主導したのは Casti と、彼が Toscana 大公国の首都 Firenze に居た時期に知り合い、1777 年から皇帝 Joseph II. によって Wien の侍従長官に任じられていた Franz Xaver Wolfgang von Orsini-Rosenberg 伯爵 (1723-1796) であり、その対象として狙われたのは作曲者の Mozart では無く、Casti 等が皇帝によって贔屓されていると感じていた Lorenzo Da Ponte であった。

 

 


この先は次回
»Antonio Salieri Teil 14«
[Archiv / Kommentar 2019 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Burgtheater

Wien の宮廷劇場の一つ

上述の
„Il ricco d’un giorno”
„La grotta di Trofonio”
„Le nozze di Figaro”
の 3 作品共にこの劇場に於いて初演を迎えている

 

 

 

 

 

 

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