Kommentar 2019 Nr. 3
Ludwig van Beethoven
und
seine Zeit
Antonio Salieri
Teil 15
»Antonio Salieri Teil 14«
[Archiv / Kommentar 2019 Nr. 2]
より続く
Wolfgang Amadeus Mozart や
Ludwig van Beethoven が
Wien で活動していた時代の
作曲家で
Wien の宮廷楽長
Antonio Salieri
について
1784 年 4 月 26 日に Académie royale de musique de Paris (Opéra de Paris) に於いて初演された、Antonio Salieri (1750-1825) の作曲による 5 幕の Tragédie lyrique „Les Danaïdes” が大変大きな成功を収めた事によって、Salieri は Paris の為の次期作の委嘱を受け、2 つの作品の台本を携えて同年 7 月に Wien に戻って来た。
その後の 2 年間は Wien の宮廷での職務外の時間を使って、先ずはその内の第 1 作となる „Les Horaces” の作曲に携わる事になる。
これより 2 年後の 1786 年の春から遅くとも 7 月迄の間に、Salieri はこの „Les Horaces” の上演準備の為に Paris へ向かって再度旅立っている。
„Les Horaces” の台本は、古代 Roma 王政時代の Horatius 兄弟と Curiatus 兄弟の闘いを描いた、France の Barock 時代の劇作家 Pierre Corneille (1606-1684) による 5 幕の悲劇 „Horace” を基にして、同じく France の台本作家で Académie royale de musique de Paris の査読委員でもあった、Nicolas-François Guillard (1752-1814) が書き上げたもので、Salieri によって 2 つの Intermède を持った 3 幕の Tragédie lyrique „Les Horaces” として完成された。
この作品の宮廷内に於ける非公開の初演は Château de Fontainebleau で 1786 年 11 月 2 日に、或いは Château de Versailles の Théâtre Montansier に於いて同年 12 月 2 日に行われ、公開初演は Académie royale de musique de Paris に於いて同年 12 月 7 日に行われた。
この作品の初演は拍手喝采を得る事が出来なかったばかりでは無く、疑い様の無い大失敗であった。
その原因としては、大司祭の役を担った歌手の Martin-Joseph Adrien (1766-1822) の失敗に或る程度の責任があったとしても、それ以上に平面的な人物描写と、祖国への義務と愛情の間の葛藤を堂々巡りする台本にあったと考えられている。
„Les Horaces” は Salieri の最初の France 語による作品であった „Les Danaïdes” の、2 年前の初演に於いて得た異例の大成功に並ぶ程のものを期待した作曲者自身と、Paris の人々の期待に叶う事は出来なかったが、Gioachino Rossini (1792-1868) の Opera buffa „Il barbiere di Siviglia” や、Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) の同じく Opera buffa „Le nozze di Figaro” 等の原作となる戯曲を書いた事で広く知られている、Pierre Augustin Caron de Beaumarchais (1732-1799) や当時の批評家達の意見では、この作品が Paris や France の趣味にそぐわなかったという点は確かにあったが、Salieri による音楽には優れた箇所が少なからずあり、改訂作業によって舞台での成功に導く可能性は十分に有るのではないかというものであった。
Salieri はこれに関して台本担当の Nicolas-François Guillard と話し合い、一旦 Wien に戻ってから改訂作業に着手する事を約したが、それが実現する前に Paris に於いて革命が勃発した為に、最早その改訂版の上演は叶わぬ事となってしまい、それ以後 21 世紀に入る迄の 200 年間以上に亘ってこの作品は全く上演される事が無かった。
Salieri が Académie royale de musique de Paris より依嘱された作品の為に Wien を出発してから以降に、„Les Horaces” に次いでその 2 作目となる Oper „Tarare” の作曲を始めている。
Prolog 付の 5 幕の Oper となって完成されたこの作品の台本は、上記の Pierre Augustin Caron de Beaumarchais によって書かれている。
1774 年に Académie royale de musique de Paris に於いて行われた、Christoph Willibald Gluck (1714-1787) の作曲による Oper „Iphigénie en Aulide” の初演を観て大変感激した Beaumarchais は、Gluck による作曲を想定して „Tarare” の台本をその翌年から書き始めるが、その完成迄には長い期間を要する事となり、漸く 1784 年になってそれは出来上がるが、その時点で Gluck はその作曲を引き受けるには最早負担の大きすぎる年齢に達していた。丁度その時期に Paris では Gluck の教えを受けた Salieri が、上記の „Les Danaïdes” の初演によって画期的な成功を収めており、それによってこの作品の作曲が Gluck に代わって Salieri に委ねられる事となった。
この先は次回
»Antonio Salieri Teil 16«
[Archiv / Kommentar 2019 Nr. 4]
へ続く
上部の写真:
初演の為に印刷された
Tragédie lyrique „Les Horaces” の
台本の標題紙