Memorandum 2013 Nr. 1

 

 

 


Thema : über Österreich und Wien

 

 


Polnischer Thronfolgekrieg

 

 


Poland 王位継承戦争

 

 

 

 

 

 

 

 1709 年に即位した Poland 国王 August II. (1670-1733) は、Wettin 侯爵家の中の一家系 Albertin 家出身の侯爵で、同時に 1694 年以降 Friedrich August I. として Sachsen 選帝侯でもあった。
しばしば August der Starke (August 強王) と呼ばれる August II. の治めていた Poland 王国内では、Magnat と呼ばれる大貴族階級が 2 つの派閥に分かれて対立していた。

 その一つの Potocki 家を中心とする派閥は、伝統的貴族特権を守ろうとする保守派で、反 Wettin 侯爵家の立場を取っていた。もう一方は Lithuania 大公家をその出自とする Czartoryski 家を中心とした派閥で、こちらは England の議会主義を標榜した政治の近代化を目指していた。
実際にはこの Czartoryski 家による近代化の派閥が優勢を占めそうな傾向にあったが、1733 年の August II. の死去によりその動きは中断される事となった。

 Austria 大公国と Russia 帝国は、August II. の没後 Friedrich August II. (1696-1763) として Sachsen 選帝侯に即位した、August II. の唯一の嫡出子が Poland 国王にも即位して、Sachsen – Poland の同君連合が存続する事を支持した。
一方 France 王国は August II. が即位する前の 1704 年から 1709 年に至る迄の比較的短期間だが、Poland 国王であった Stanislaus I. Leszczyński (1677-1766) が国王に復位する事を求めた。

 これには Stanislaus I. Leszczyński が Poland 国王を退位させられて亡命生活を余儀なくさせられていた間の 1725 年 9 月 5 日に、その次女の Maria Leszczyńska (1703-1768) が Louis XV. (1710-1774) と Fontainebleau に於いて結婚しており、これによって Stanislaus が France 国王の義理の父親になっていたという経緯が関係している。

 国王空位期間中の執政官を務めていた大司教 Teodor Andrzej Potocki (1664-1738) に纏められた Poland の貴族連合は、1733 年 9 月 10 日に Stanislaus Leszczynski を国王に選出した。
しかしその月末には Russia 帝国軍が首都 Warschau の近くに迄侵攻し、その圧力の下 Sachsen 派と特に数多くの Lithuania の貴族達の投票によって、今度は Friedrich August が国王に選ばれた。

 Stanislaus Leszczynski は港湾都市 Danzig に逃れたが、Russia と Sachsen 軍によって包囲され、Leszczynski 救援の為に送られた France の遠征部隊も Russia 軍によって撃退され、翌 1734 年 7 月に Danzig は陥落した。
Leszczynski は Danzig から脱出して、Friedrich Wilhelm I. (1688-1740) の治める Preußen 王国の Königsberg に亡命する。

 その後戦闘は更に Rhein 河沿いの France との国境地帯や Italia に於いて継続された。Austria 軍は当初既に高齢の域に達していたが、当時 Austria の最も高名な軍人 „Prinz Eugen” として良く知られる、Savoyen-Carignan 王子 Eugen Franz (1663-1736) に率いられていた。
France 軍はその国境地帯では Kehl や Philippsburg の要塞を占領するという戦果を上げる事が出来た。

 一方 Italia に於いては 13 世紀以来 Spain の領土であったが、1701 年から 1714 年に亘る Spain 王位継承戦争の結果締結された Rastatt の和約によって、Austria 領となっていた Napoli 及び Sicilia 王国の奪回を目指して Spain 軍が、また同じく Spain 王位継承戦争以来 Mantova, Milano, Parma も Austria 領となっていたが、その Lombardia 地方からの Austria 勢力の排除を求めて Sardegna 王国軍がそれぞれ France 側に加わり、 Parma や Guastalla で戦果を上げていた。

 1735 年 10 月 3 日に Wien に於いて Austria と France の間で締結された事前和平条約では、Sachsen 選帝侯 Friedrich August II. が Poland 国王として認められた。
一方 France が推していた Stanislaus Leszczynski は国王という称号のみを保有し、領土としては Lothringen と Bar 公国が Poland の代償として与えられた。
しかしこの両公国は実際には France の管理下に置かれ、その領有は Stanislaus の 1 代に限るという条件が付けられ、 Stanislaus の没後は公式に France 王国に併合される事が取り決められた。

 Spain は Napoli 及び Sicilia 王国と Elba 島を得る代わりに、Parma-Piacenza 公国は Austria が確保し、また殆どの北部 Italia の領土が再度 Austria 大公国の支配下に戻る事となった。
子供のいない Toscana 公国の大公 Gian Gastone de’Medici (1671-1737) の死がそう遠くない将来に迫っており、それによって Medici 家による支配が終わりを告げる事が視野に入っていた為、 Stanislaus Leszczynski にその世襲領地が与えられる Lothringen と Bar 公国の公爵 Franz Stephan von Lothringen (1708-1765) には、その代償として Toscana 公国が与えられる事となった。

 しかしこの事前平和条約で定められた内容は、大公 Gian Gastone de’Medici の死亡によって初めて全て実行する事が出来るため、その実施に関しては Gian Gastone の死亡を待ってからという事になった。
その後 1737 年 5 月 1 日に最終的な和平条約が締結されたが、その公布は尚最後の Medici が死亡するまで控えられ、同年 7 月 9 日の Gian Gastone の死亡を経て 1738 年 11 月 18 日になって初めて、1735 年の Wien に於ける事前和平条約の内容が確認されて公式に発表された。

 

 


Franz Stephan von Lothringen
に関しては
[Archiv / Kommentar 2013 Nr. 1]
を参照

 

 


上部の写真:


Stanislaus I. Leszczyński の
肖像画

 

 

 

 

 


Poland 国王としての
Stanislaus I. Leszczyński の
紋章

 

 

 

 

 

 

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