Memorandum 2013 Nr. 2

 

 

 


Thema : über Österreich und Wien

 

 


Pragmatische Sanktion

 

 


国本勅諚 (国事詔書)

 

 

 

 

 

 

 


Pragmatische Sanktion は
神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VI. (1685-1740) が
Austria 大公として
1713 年 4 月 19 日に定めた
Habsburg 家の相続に関する家憲

 

 Spain 国王 Carlos II. (1661-1700) が 1700 年に亡くなると、彼には男子の後継者がいなかったために Spain 系列の Habsburg 家は途絶える事となり、それがきっかけとなって翌 1701 年に Spain の王位継承戦争が勃発する。
Pragmatische Sanktion は、この Spain 系 Habsburg 家の断絶を契機として 1703 年 9 月 12 日に定められた、 Pactum Mutuae successionis (承継の合意) と呼ばれる、同じく Wien 系列の Habsburg 家の協約をその直接の根拠としており、本質的な内容に関してはそれと大きな違いは無い。

 そこではそれ迄長い間 France や独語圏の国々等多く Europe の公室で行われていた様に、Frank 王国の Lex Salica (Salica 法典) をその起源とする、王位継承とその相続からは女性を除外するという規則からは逸れ、原則的には男性による長子相続を行うが、それが叶わない場合には補充的に女性による相続を認めるという内容になっている。

 具体的には第 1 継承権を王位保持者の長男が持ち、その次はその長男に端を発する家系の男子の年長者がそれを継ぐ。直系に男子がいない場合には同様の原理で年長順に傍系の男子家系に移る。完全に男子の相続権者が途絶えた場合に限って初めて女子に相続権を認め、先ず最後の王位保持者の長女がその後継者となり、男子の場合と同様にその子孫がその後王位継承権を受け継いで行くという様に定められている。

 更に Pactum Mutuae successionis に於いては、Austria 公爵 Rudolf IV. (1339-1365) とその弟達の Albrecht III. (1349/1350-1395) と Leopold III. (1351-1386) との間で 1364 年に締結された、所謂 Rudolfinische Hausordnung (Rudolf の家訓) と呼ばれる協定の伝統に従って領地の分割禁止と、Pactum Mutuae successionis を定めた皇帝 Leopold I. (1640-1705) の 2 人の王子、Joseph (1678-1711、1705 より皇帝 Joseph I.) と Karl (1685-1740、Pragmatische Sanktion を定めた後の神聖 Roma 帝国皇帝 Karl VI.) の家系が、交互に帝位を承継するという事が定められている。
1713 年の Pragmatische Sanktion では Rudolfinische Hausordnung と同様に、Habsburg 家の世襲領地の相続による分割禁止が改めて確認されている。

 Habsburg の家憲として定められた後も外部には秘密にされていた、1703 年の Pactum Mutuae successionis に対して Pragmatische Sanktion の方は、厳かな儀式を以て公式に発表されたばかりでは無く、こちらは Habsburg 家の支配する領地内のそれぞれの各王国や公国に於いて、例えば 1723 年には Hungary 王国の議会で承認される等、それぞれの国法として公式に発布・施行される事となった。

 Pragmatische Sanktion が Habsburg 家領内の各国に於いても国法として定めらえた後に、皇帝 Karl VI. は更に 1725 年から 1730 年に掛けて、Habsburg 家の支配領域以外の主要な国々からもその承認を得るという事に努めた。

 1740 年 10 月 20 日に Karl VI. が亡くなると、40 年前の Spain 系列の Habsburg 家の場合と同様、彼には男子の後継者がいなかった為に、Pragmatische Sanktion によって定められていた王位承継の最後の例が早速適用される事となり、その結果 Karl VI. の長女の Austria 大公女 Maria Theresia (1717-1780) が Habsburg 家の後継者と定められた。
しかし Karl VI. にとっては周到に準備をするという意味で、その生前に得ていた諸外国からの Pragmatische Sanktion に対する承認の効果というものは、実際には限定的なものであった事がすぐに判明する。

 Bayern 選帝侯 Karl I. (1697-1745) と Sachsen 選帝侯 Friedrich August II. (1696-1763) の両者が、Pragmatische Sanktion の有効性と、それに従って決定された Maria Theresia の Habsburg 家世襲領地の継承権に対して異議を唱え、この 2 人はそれぞれが、亡くなった Karl VI. の兄で 1705 年から 1711 年の死亡迄神聖 Roma 帝国皇帝であった、上記の Joseph I. の末の娘 Maria Amalia von Österreich (1701–1756) と、同じくその長女の Maria Josepha von Österreich (1699–1757) の配偶者という立場から、自身の相続の権利を主張した。

 一方、Preußen 王国の国王 Friedrich Wilhelm I. (1688-1740) は、1728年に Pragmatische Sanktion を承認し、Habsburg 家の新しい相続継承の方法と同時に、Habsburg 家の世襲領地の分割禁止についても認めていたにも拘らず、その息子で Karl VI. の亡くなった年の 5 月に国王に即位したばかりの Friedrich II. (1712-1786) は、上記 2 人の異議申し立ての混乱に乗じて Pragmatische Sanktion と、それによる Maria Theresia の相続継承権を認める代償として、Preußen が既に過去の 1686 年にその権利を放棄していた Schlesia 公国 (現在の Poland 共和国南西部から Czech 共和国北東部に跨る地域、当時は Habsburg 家の領地) の権利を再び主張し、その Preußen 王国への割譲を求めた。

 Friedrich II. はその年の 12 月 11 日に Austria 大公国に対して最後通告を行ったが、それに対する Maria Theresia の返答を待つ事無く、5 日後の 16 日には Schlesia に軍隊を侵攻させて占領してしまう。
これによって 1748 年の Aachen の和約に至る迄の 9 年間に亘る、Europe 主要国を巻き込んでの Austria 継承戦争が始まる。

 この戦争の結果 Habsburg 家は Schlesia を Preußen 王国に奪われる事になるが、一方 Pragmatische Sanktion は広く承認される事となり、Habsburg の君主政体が終焉する 1918 年迄その有効性を保持する事が出来た。

 所謂 Habsburg 帝国、又は Habsburg 君主国というものは、Habsburg 家の支配下にある領域を総称する非公式な通称で、この Pragmatische Sanktion が公布される以前は、その Habsburg 帝国を構成する各国を一つに纏める帝憲上の規定は存在しなかった。
その構成各国が Pragmatische Sanktion を承認する事によって、Habsburg 家を中心とする一つの国家政体の下に纏まるという意思を公式に表明し、またそれが法律上初めて定められたという、Habsburg 帝国にとっての象徴的な意味が Pragmatische Sanktion にはある。
1867年に Austria – Hungary 2 重帝国が生まれた折にも、Hungary 側の各国とそれ以外の Austria 側の各国を結び付ける根拠として、この Pragmatische Sanktion は重要な意味を果たしていた。

 

 


上部の写真:


Pragmatische Sanktion を定めた
Karl VI.

Wien の宮廷画家
Martin van Mijtens (1695-1770) による
油彩画

 

 

 

 

 


Pragmatische Sanktion の
証書

 

 

 

 

 

 

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