Memorandum 2013 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 1

 

 


選帝侯 (第1回)

 

 

 

 

 

 

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 後の神聖 Roma 帝国の前身になる東 Frank 王国で、911 年にその国王 Ludwig IV. (893-911) が亡くなると、彼には後継者が無く東 Frank 王国の Karoling 朝は断絶する事となったが、その折に東 Frank 王国の諸侯達は協議によって、Konrad I. (ca.881-918) を次期の国王に選出した。
これが東 Frank 王国及び神聖 Roma 帝国に於いて、王を選出して決定するという伝統の始まりとされるが、国王を選出する事自体はこれに先立つ 888年に、Frank 王国を一時的に統一した Roma 皇帝 Karl III. (839-888) が亡くなり、再度分裂状態に陥った西 Frank 王国の国王として、Odo von Paris (866-898) が選ばれた際にも行われた事があった。

 西 Frank 王国ではその後も国王の勢力が十分強く、後継者にも恵まれていた為に、国王の生前からその息子を次期国王に選出させていたので、実質的には世襲制との違いは無かったが、一方東 Frank 王国に於いては国王が後継者無く亡くなる事が珍しくなく、またその直系の子孫以外の諸侯が選出されて国王に即位するという事がしばしば行われた。
1152 年に東 Frank 王国の Konrad III. (1094-1152) が亡くなった折にはその次男が在命していたが、その息子ではなく甥の Friedrich I. (ca. 1122-1190, 通称 Barbarossa 赤髭) が Roma ドイツ王に選出されて、世襲による王位相続権は弱体化する一方、選帝諸侯による王位選出の権利は強まる事となった。

 当初の王位選出が始まった 911 年以来、全ての帝国諸侯は王位選出に参加する権利があるとされていたが、一方それに先立って予備の選出を行い候補者を限定するという事も行われていた。
これには全ての諸侯が参加出来る訳では無く、王に次ぐ階級身分を保持する位階の高い帝国諸侯に限られていた。
この予備の選出によって予め認められた場合に限って、それ以外の諸侯達による王位の選出は有効とされた。
この予備の選出権を保持していたのが、 Mainz、Köln と Trier の 3 人の大司教と Rhein 宮中伯であった。

 1197 年に神聖 Roma 帝国皇帝 Heinrich VI. (1165–1197) が亡くなる。Heinrich VI. にとっては彼が亡くなる 3 年前に生まれたばかりの Friedrich (1194-1250) が唯一の息子であった。 Heinrich VI. はその生前に帝国領を世襲領地にして、何とかしてその息子に帝位を受け継がせようと務めたが、数々の諸侯の反対に遭って計画は中々思う様に進まず、漸く 1196 年になって Friedrich が将来の皇帝即位に繋がる Roma ドイツ王に選出されるというところ迄到達した。
しかし早くもその翌年の 9 月に Heinrich VI. が不意に亡くなってしまうと、早速 Heinrich の属する Staufer 家とそれに対抗する Welfen 家による Roma ドイツ王位を巡る争いが始まり、それぞれが王を選出する 2 重選挙状態となる。

 Heinrich VI. が亡くなった時点でその息子の Friedrich は未だ 3 歳にもならない幼さであったので、Welfen 家側の Franken 地方を除く Staufer 系の諸侯は、Heinrich VI. の弟の Philipp von Schwaben (1177-1208) を新たに Roma ドイツ王として選出し、 Philipp は 1198 年 9 月 8 日に Mainz に於いて、Savoie の大司教 Aymon de Briançon von Tarentaise († 1210) によって戴冠した。
しかしこの戴冠式は神聖 Roma 帝国の戴冠式が執り行われる正式な場所 Aachen でもなく、また唯一その権利のある聖職者と定められた Köln の大司教の手によって行われたものでもなかったので、その正当性の主張には大変脆弱なものがあった。

 一方これに対して Welfen 家に属する Sachsen 及び Bayern 公爵 Heinrich der Löwe (ca. 1129-1195, 獅子王) と、Köln の大司教 Adolf I. von Altena (1157-1220) を中心とする Welfen 家側の諸侯達は、Heinrich der Löwe の三男、Otto IV. von Braunschweig (ca. 1775-1218) を Roma ドイツ王として選出し、1198 年 7 月 12 日に Aachen に於いて Köln の大司教の手によって戴冠する。この戴冠式は正式な場所と聖職者の下に執り行われてはいたが、戴冠式に必要と定められていた戴冠権票が欠けていた。これはそれ迄皇帝を輩出していた Staufer 家が保持しており、同様に戴冠の正当性の主張は脆弱であった。

 この両家の王位争いの裁定は、 Roma ドイツ王から神聖 Roma 帝国皇帝への戴冠を執り行う事が出来、またその皇帝候補者を唯一審査する権利を保持していた Roma-Katholik の法王、Innozenz III. (ca. 1160-1216) の手に委ねられる事となった。
1200 年から翌年に掛けての年の変わり目に、Innozenz III. は Otto IV. を Roma ドイツ王として認める判断を下す。 Otto IV. はそれに対して 1201 年 6 月 8 日の Neuss の誓約によって、中部 Italia と Sicilia に於ける Katholik による法王領の要求を公式に認める。

 法王 Innozenz III. による力添えにも関わらずその後 Otto IV. は、その兄 Heinrich V. von Braunschweig (ca. 1173-1227) や、Köln の大司教等を始めとする当初の支持者達が次第に Staufer 家側に移って、その勢力の弱まりは明らかとなって来た。そういう中 1205 年になると再度 Philipp von Schwaben が改めて Roma ドイツ王に選出されて、その年の 1 月 6 日に今回は正式な場所 Aachen に於いて、Köln の大司教 Adolf I. von Altena の手にによって正統的な戴冠式が執り行われた。

 しかしこの後もこの両王の対立は更に続き、1206 年 7 月 27 日には Wassenberg (現在の Nordrhein-Westfalen 州で Nederland との国境沿いの町) の戦いに於いて、既に法王による支持も失っていた Otto IV. は、Philipp von Schwaben の軍に敗退して Braunschweig へ逃亡する。

 その Roma ドイツ王としての帝国内に於ける全般的承認を目前にし、神聖 Roma 帝国皇帝への戴冠が Roma-Katholik の法王使節によって正に告知されようとしていたその時、Philipp von Schwaben は 1208 年 6 月 21 日に、姪の Beatrix von Burgund (ca. 1193-1231) と Meranien 公爵 Otto VII. von Andechs († 1234) の結婚式の為に Bamberg に赴き、その結婚式の当日に Bayern 宮中伯 Otto VIII. von Wittelsbach (vor 1180-1209) に殺害されてしまう。

 

 


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へ続く

 

 


上部の写真:


神聖 Roma 帝国の皇帝冠

 

 

 

 

 

 

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