Memorandum 2013 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 2

 

 


選帝侯 (第2回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 1«
[Memorandum 2013 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 神聖 Roma 帝国皇帝の戴冠を目前にした 1208 年 6 月に、姪の Beatrix von Burgund (ca. 1193-1231、Burgund 宮中伯 Otto I. の次女) と、Meranien 公爵 Otto VII. von Andechs († 1234) の結婚式の為に赴いた Bamberg に於いて、その結婚式の当日に殺害された Philipp von Schwaben (1177-1208) は、在位中に殺害された唯一の Roma ドイツ王となった。

 その犯行に及んだ Bayern 宮中伯 Otto VIII. von Wittelsbach (vor 1180-1209) は、1203 年に Philipp von Schwaben の長女で、当時未だ 5 歳であった Beatrix von Schwaben (1198–1212) と婚約していた。しかし 1208 年になって Philipp von Schwaben は、その結婚が相応しくないとして婚約を解消したが、それに対する Otto の個人的な恨みが犯行の動機ではないかと推測されている。

 Otto はその日、前触れ無しに昼の休憩中であった Philipp を訪れて面会を求め、王はその無理を許したが、その場で Otto は剣を抜き Philipp の頸動脈を切って逃走した。
逃走中の Otto は翌 1209 年 3 月 7 日に Oberndorf bei Kelheim に於いて、帝国元帥の Heinrich von Kalden (1175 以前 – 1214 以後) によって法の保護を受ける資格を剥奪され、殺害された。

 Philipp 殺害の時点で妊娠していた、東 Roma 帝国皇帝 Isaak II. Angelos (1155-1204) の長女で Philipp の王妃 Irene von Schwaben (1172–1208) は、危険から逃れる為に Hohenstaufen 城に逃げたが、そこで Philipp との間の 7 番目の子女に当たる子供 (Beatrix) を流産し、それが原因で Irene 自身もその年の 8 月 27 日に亡くなる。

 一方それ迄 Philipp von Schwaben と共に 2 重 Roma ドイツ王としてその正当性を互いに争い、Philipp 殺害の直前には実質的に完全な敗北を喫していた Otto IV. von Braunschweig (ca. 1775-1218) は、彼が Philipp 殺害を目論んだのではないかという疑いから逃れる事は叶わず、その疑いを晴らす為に Philipp 殺害の犯行に及んだ Otto VIII. von Wittelsbach と本来ならば結婚する予定であった Philipp の長女、Beatrix von Schwaben と婚約を交わした。
その年の 11 月 11 日に Frankufurt に於いて、Otto IV. は改めて Roma ドイツ王に選出され、翌 1209 年に Roma に於いて、法王 Innozenz III. (ca. 1160-1216) によって神聖 Roma 帝国皇帝として戴冠した。

 Otto IV. はこれに先立つ 1201 年に、Roma ドイツ王としての認証を得る為に法王 Innozenz III. と、中部 Italia 及び Sicilia に於ける法王領としての Roma-Katholik の要求を認める Neuss の誓約を交わしたが、彼が 1209 年に皇帝に戴冠するに当たっては、改めて同じ内容の協約を Speyer に於いて結んだ。

 しかし 2 重 Roma ドイツ王の対立として永らく争って来たその元の起こりの前皇帝 Heinrich VI. (1165–1197) の唯一の息子、 Friedrich (1194-1250) が 1198 年に Sicilia 王に即位しており、Otto IV. の戴冠の時点には既に成人の年齢に達していた。その Friedrich の領土から反乱貴族達の援助の求めが Otto IV. の許に届き、自身の Welfen 家と対立する Staufer 家の Friedrich への対抗心から、法王 Innozenz III. との約束を破って、Italia 半島に於いて帝国の軍事力を組織し、Sicilia 王国から Friedrich を追放しようとした。

 Otto IV. は 1210 年秋に北部 Italia から次第に南へ進軍し、その間教会領の大部分を占領して、翌年の秋には Sicilia を目前にする Calabria 地方に到達した。
これによって法王 Innozenz III. は 1210 年 11 月 18 日と、翌年の 3 月 31 日に改めてもう一度、Otto IV. を破門及び教会からの追放処分に処している。
しかし Otto IV. はこの Sicilia 遠征でそれ以降全く戦果を挙げる事が出来ず、Friedrich の追放は諦めてドイツに引き揚げる。

 Otto IV. は Philipp von Schwaben の長女 Beatrix との婚約以来、彼女が未成年であったために結婚の許される年齢になるのを待っていたが、1212 年 7 月 22 日になって 2 人は漸く結婚する。
しかしそのわずか 21 日後の 8 月 11 日に Beatrix は亡くなってしまう。

 一方それに先立つ 1211 年 9 月には、法王と France 国王 Philippe II. (1165-1223) の後援を受けて、Friedrich が Nürnberg に於いて Roma ドイツ王に選出され、翌年 9 月に彼自身がドイツ領に足を踏み入れると、嘗て Staufer 家側に属していた諸侯達が Welfen 家の Otto IV. から離脱し始めた。
また人頭税の導入や教会財産の世俗化とそれへの課税という Otto IV. の財政変革案を、Speyer と Metz の司教で同時に帝国官房であった Konrad III. von Scharfenberg (ca. 1165-1224) が事前に漏らして広くそれが伝わると、帝国諸侯と聖職者双方の Otto IV. からの離反は一層加速される結果となった。

 Friedrich は 1212 年 11 月 19 日に Vaucouleurs に於いて、前記 Capet 朝の France 国王 Philippe II. と共に、England 及び皇帝 Otto IV. に対する Staufer 家と Capet 家の同盟関係を改めて確認する。
また同年 12 月 5 日には Frankfurt に於いて、Friedrich が改めて Roma ドイツ王に選出され、同月 9 日に Mainz に於いて戴冠する。

 Otto IV. は帝国に於ける未だ最終的に解決しない帝位争いを、France 対 England の争いに関係付けて解決しようと目論見、France 国王 Philippe II. に対する Nederland との同盟を結ぶ。また Otto IV. 自身と同様に法王 Innozenz III. と対立して破門されていた、伯父に当たる England 王 John (1167-1216) と軍事的協力関係を結ぶ。

 John は Otto IV. と Nederland の協力を得て、南北両面から Philippe II. を攻撃し、その頃迄に殆ど失われてしまっていた France に於ける England 領の失地回復を目指したが、1214 年 7 月 2 日に Anjou 伯領の都 Angers の南西約 15 km に位置する、La Roche-aux-Moines 城の城壁の外で行われた戦いに於いて、Philippe II. が王子 Louis (1187-1226, 後の国王 Louis VIII.) に任せた軍隊によって大敗北を喫して南へ逃げ、Louis に抑えられてその後の北進は困難な状況となった。

 一方 Otto IV. とその同盟軍は同年 7 月 27 日に、当時の Flandre 伯爵領 (現在は France 北端の Nord-Pas-de-Calais) の Lille と Tournai の間にある、Bouvines で行われた戦いに於いて、Philippe II. に対して完全な敗北を喫する。
Otto IV. は戦場から抜け出して Köln に逃亡する事が出来たが、Rainald I. von Dammartin (ca. 1165-1227) はその死の年迄、また Flandre 及び Hainaut 伯爵 Ferrand (1188-1233) も同じく 1227 年に至る迄の、12 年間以上に亘る囚われの身となる。

 これによって 1197 年以来続いていた神聖 Roma 帝国皇帝位の争いは最終的に決着が付き、Heinrich VI. の一人息子、Friedrich の Roma ドイツ王への戴冠式が改めて翌年の 7 月 23 日に Aachen に於いて執り行われ、その王位は帝国諸侯に広く認められた。
一方 Otto IV. は 1215 年に Roma に於いて行われていた、第 4 回 Lateran 公会議に使者を派遣して、権力への復帰の為には先ず必要な破門の赦免を認めて貰おうとしたが、法王 Innozenz III. はその為の取引には応じず、返ってその公会議では Friedrich の神聖 Roma 帝国皇帝への選出が確認された。

 Otto IV. は軍事的に敗北しただけでは無く、帝国諸侯や England の支持も失い、1216 年には Köln や Bremen 等の市民達も Otto IV. から離脱して行き、自身の出生の地で元々の領地であった Braunschweig だけが実質的支配地として残る事となった。
Otto IV. はその後 1218 年に感染症に罹り、5 月 13 日に帝国権票が保管されてあった Harz 城に移る。

 病気の進行はかなり早く、同年 5 月 18 日には兄の Heinrich (1173/74-1227) を遺言執行者に定め、全員一致で選出された Roma ドイツ王 Friedrich に自分の死後渡すようにという指示と共に、帝国権票を Heinrich に託した。
Otto はその翌日の 5 月 19 日に亡くなる。
Friedrich の神聖 Roma 帝国皇帝への戴冠式は 1220 年に Roma に於いて、法王 Honorius III. (ca. 1148-1227) によって執り行われた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 3«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


神聖 Roma 帝国
帝国権票

 

 

 

 

 

 

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