Memorandum 2013 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 3

 

 


選帝侯 (第3回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 2«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 神聖 Roma 帝国皇帝 Heinrich VI. (1165-1197) の没後始まった、Staufer 家と Welfen 家の Roma ドイツ王位の争いの為に、それぞれの側の帝国諸侯から Roma ドイツ王が選出されて対立するという、2 重選挙の状態が生じた。
Köln の大司教は諸侯に選出された Roma ドイツ王に戴冠する権利を有する唯一の聖職者として、聖職者の中でも特別に認められた権利を有していたが、その頃の Köln 大司教 Adolf I. von Altena (1157-1220) は、Otto von Braunschweig (ca. 1175-1218) を支持して、当初は Welfen 家側に属していた。

 その Welfen 家側に属する諸侯集団が自分達に有利になる様に、それ迄行われて来た様な帝国諸侯全員が Roma ドイツ王を選出するのでは無く、Köln と Mainz の大司教及び Pfalz 伯爵と Sachsen 公爵という、宗教界と世俗界のそれぞれから 2 人ずつ選ばれた諸侯からなる集団が、Roma ドイツ王選出の最終的な権限を持つべきだと Adolf I. von Altena に働きかけた。
その後にその 4 人に更に各界から 1 人ずつ、Trier の大司教と Brandenburg 辺境伯が加えられる事となった。

 1230 年頃に Eike von Repgow (ca. 1180 – ca. 1233) は、それ迄口伝によって伝えられて来た慣習法を、ドイツ中世に於いて最古の法律書となる Sachsenspiegel として纏めたが、それによると皇帝選挙権の順位はまず 1 番が Mainz、2 番が Trier、3 番が Köln の各大司教で、その後に世俗界の上記 3 人の諸侯が続くとされている。
Sachsenspiegel に於いては、Bohemia 王はドイツ人では無いので選挙権が認められないという事が強調されているが、1252 年以降はこの選挙候団が Roma ドイツ王選出の最終的な決定権を持つに及んで、諸侯の同数分裂による行き詰まり状態を回避する為に、Bohemia 王が選挙候団に加えられている。

 しかし Roma ドイツ王 Wilhelm von Holland (ca. 1228-1256) が死亡した翌年の選挙に於いて初めて、他の全諸侯を排除した独占的選挙候団として上記の諸侯はその役目を果たせる筈であったが、 Roma ドイツ王候補者であった Richard von Cornwall (1209-1272) と、Alfons von Kastilien (1221-1284) の 2 人はそれぞれ 3 票ずつを獲得し、最後に投票する Bohemia 王の意向によって決定する筈であったがところが、その時の Bohemia 王 Ottokar II. Přemysl (ca. 1232-1278) が両候補者に投票してしまったため、選挙候団は Roma ドイツ王を決定する事が出来ず、前記 Heinrich VI. の没後に続いて再度対立王の立つ 2 重選挙状態となってしまった。

 その後の 1273 年に Rudolf von Habsburg (1218-1291) が選出されて、Rudolf I. として Habsburg 家からの初の Roma ドイツ王に即位する迄、実際には両王が実力で各勢力圏内を統治する、神聖 Roma 帝国の大空位時代が続く事となった。
その間逆に選挙候団に属する諸侯の帝国内に於ける地位は、次第に高められる結果となった。

 Roma ドイツ王 Albrecht I. von Habsburg (1255-1308) の没後 1308 年に行われた選挙では、選挙候団の全会一致によって Heinrich von Luxemburg (1278/79-1313) が新たな Roma ドイツ王に選出され、選挙候団の権利とその機能が改めて広く確認された。
更に今回の選挙ではその時の法王 Clemens V. (ca. 1264-1314) に対してその選挙結果が伝えられたのみで、その結果への承認は求められる事が無かった。それ以前の選挙の場合には諸侯による選挙結果に対して、法王による承認が得られて初めて戴冠が行われた為、帝国の政治権力に対する法王の影響と関与を避ける事が出来なかった。しかし今回の選挙によって選挙候団による決定のみが Roma ドイツ王の選出に対する最終的に有効な決定であって、それ以外に外部からのそれに対する何らかの付加的な確認は必要とされないという事が明確にされた。

 また今回の選挙では、特にその前の Roma ドイツ王であった Adolf von Nassau (ca. 1250-1298) や上記の Albrecht I. von Habsburg が、皇帝権力の強化や領土拡大を目指した為に、逆にそれによって権利が縮小される事になる帝国諸侯達からは嫌われて、廃位されたり殺害される結果となったが、一地方領主であった Luxemburg 伯爵の Heinrich がこの時に選出されたのにはそういう事情があった。

 それ以後選挙候達は彼等に認められた権利の維持に特に注意する様になり、皇帝にはその権利を尊重する事を求めた。
Heinrich VII. として Roma ドイツ王に即位した Heinrich von Luxemburg は、息子の結婚を通して Bohemia 王国への権力の伸長を企て、また Italia 遠征も行うが、皇帝の権力行為の範囲は選挙候の権力と対比して、その後次第に制限されて行く事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 4«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


Oldenburg 版
Sachsenspiel の 一部

 

 

 

 

 

 

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