Memorandum 2013 Nr. 6

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 4

 

 


選帝侯 (第4回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 3«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 5]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1313 年に皇帝 Heinrich VII. von Luxemburg (1278/79-1313) が Napoli への遠征の途上、Siena 近郊で急に亡くなると、早速皇帝位を狙う権力闘争が始まり、Köln と Mainz の大司教は Heinrich VII. の息子で Bohemia 王であった、Johann von Luxemburg (1296-1346) を次期 Roma ドイツ王にしようと働き掛けた。しかし当時未だ 17 歳であった Johann では選帝諸侯団の十分な票を獲得するのが困難であるだろうという見通しと、Luxemburg 家の権力の強大化を嫌い、寧ろ余り勢力の強くない皇帝を選出しようという傾向にあった選帝諸侯達の反対に遭って、この目論見は失敗する。

 Wittelsbacher 家に属する上部 Bayern 公爵 Ludwig der Bayer (ca. 1282-1347) は自ら、Trier の大司教及び選帝侯 Balduin von Luxemburg (ca. 1285-1354) を始めとする他の選帝諸侯に接触を取り、最終的には自身が Wittelsbacher 家出身の初めての Roma ドイツ王候補者となった。

 一方それに対して Heinrich VII. の前の Roma ドイツ王であった Albrecht I. von Habsburg (1255-1308、Roma ドイツ王在位 1298-1308) の息子の Friedrich der Schöne (1289-1330) が、Köln 大司教及び選帝侯 Heinrich II. von Virneburg (1244/1246-1332) 及び、Ludwig der Bayer の兄で、自身が Roma ドイツ王の候補者になろうとしたがそれを諦めた、Friedrich der Schöne からはその従兄に当たる、上部 Bayern 公爵及び Rhein 宮中伯 Rudolf I. (1274-1319) の協力を得て、Habsburg 家からの Roma ドイツ王候補者となった。

 1314 年に選帝諸侯による選挙が行われたが、その結果は対立王の生まれる 2 重選挙となった。
同年 10 月 19 日に Sachsenhausen に於いて、Rhein 宮中伯として Rudolf I.、前述の Köln の大司教 Heinrich II. von Virneburg、Sachsen-Wittenberg 公爵 Rudolf I. (1284-1356) と Bohemia 王 Heinrich VI. von Kärnten (ca. 1265-1335) の各選定諸侯が、Habsburg 家の Friedrich der Schöne を Roma ドイツ王に選出し、Aachen からは拒否された為に、Bonn に於いて Köln の大司教によって戴冠した。

 これに対して 10 月 20 日には Frankfurt に於いて、Mainz の大司教 Peter von Aspelt (ca. 1245-1320)、前述の Trier の大司教 Balduin von Luxemburg、Bohemia 王で Luxemburg 伯爵も兼ねていた Johann von Luxemburg (1296-1346) と Brandenburg 辺境伯 Waldemar von Brandenburg (ca. 1280-1319) によって、Wittelsbacher 家の Ludwig der Bayer が選出され、こちらは Aachen に於いて Mainz の大司教によって、Roma ドイツ王 Ludwig IV. として戴冠した。

 両方の陣営がそれぞれ Roma ドイツ王としての正統性を主張したが、先ず Friedrich der Schöne に Bohemia 王として投票した Kärnten 公爵 Heinrich VI. は、既に 1310 年に Johann von Luxemburg が Bohemia 王に選出された時点で廃位されていたので、選帝侯としての権利の正統性の主張には根拠が欠如する。
また戴冠式が行われた場所とそれを執り行った聖職者に関しては、Ludwig IV. が正当な場所 Aachen に於いて間違った聖職者、Mainz の大司教によって戴冠しており、一方 Friedrich der Schöne の方は間違った場所 Bonn に於いて、正当な聖職者 Köln の大司教の手によって戴冠式が行われているという状況で、双方共にそれぞれ脆弱性が見られる。

 この争いを武力によって解決しようとする前に、それぞれは先ず選帝侯以外の帝国諸侯達や各都市の支持の獲得に努めた。
これに関しては Ludwig IV. の方が、大部分の帝国都市を自分の支持側に付ける事に成功した為に有利であった。
また Ludwig IV. は Roma ドイツ王の選挙の時点迄は相争っていた兄の、上部 Bayern 公爵及び Rhein 宮中伯 Rudolf I. とも取り敢えず和解し、彼等の父親の 上部 Bayern 公爵 Ludwig II., der Strenge (1329-1394) から共に相続した、上部 Bayern 公国を共同統治する事にも同意した。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 5«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 7]
へ続く

 

 


上部の写真:


Roma ドイツ王の戴冠式が行われる
正式な場所であった
Aachen 大聖堂の
主祭壇

 

 

 

 

 

 

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