Memorandum 2013 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 5

 

 


選帝侯 (第5回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 4«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1313 年に急に亡くなった皇帝 Heinrich VII. von Luxemburg (1278/79-1313) の、後継者選出の為に翌年行われた選挙で、2 重選挙状態となり相争う事になった、Roma ドイツ王 Ludwig IV. として戴冠した上部 Bayern 公爵 Ludwig der Bayer (ca. 1282-1347) と、Friedrich I. として戴冠した Friedrich der Schöne von Habsburg (1289-1330) との軍事力による解決は暫く先送りされた。

 Habsburg 家と Suisse 諸州との初の軍事的衝突となる、1315 年の Morgarten の戦いに於いて Habsburg 家は敗北を喫し、それに対して翌年 Ludwig der Bayer は Suisse 諸州の Habsburg からの独立を承認したが、それ以上の Ludwig der Bayer と Friedrich der Schöne との衝突は、帝国領内の飢餓を避ける為に回避された。
1315 年に Ludwig の軍と Friedrich の軍が初めて、上部 Rhein 地方の Speyer に於いて対峙したが、やはりこの時も戦闘には至らなかった。

 一方先の Roma ドイツ王選挙の際に、Ludwig が選帝諸侯の票を獲得する為に彼等と交わした約束に基づいて、Wittelsbacher 家の領地の一部を Mainz, Trier と Bohemia に分割供与すると、一度は Ludwig と和解に至ったその兄の、上部 Bayern 公爵及び Rhein 宮中伯 Rudolf I. (1274-1319) がそれに対して怒り、再度 Friedrich der Schöne 以下の Habsburg 家側に与する事を公に表明する。

 Friedrich der Schöne との戦争が回避されている間に、2 人が共同統治していた上部 Bayern 公国の貴族達は、Ludwig と Rudolf の間の大きな隙間を何とか埋めようと努めた。彼等の目論見によれば、Rudolf が Roma ドイツ王としての Ludwig の地位と、Wittelsbacher 家の領地の選帝諸侯への一部供与を認める代わりに、上部 Bayern の単独統治権を得るというものであった。

 しかしそれに対して Ludwig は、Rudolf への 上部 Bayern の自身の統治権の譲渡を決して認めようとはせず、逆に様々に巧妙な手を尽くして、上部及び下部 Bayern 公国の貴族や聖職者等の、帝国議会での発言権を持つ者達の支持を獲得する事に邁進した。
その結果 Rudolf は所有する城も奪われ、Habsburg 家に好意的な立場を取る Worms の司教の下に逃げざるを得なくなる。

 その後 Wittelsbacher 家と Habsburg 家の争いは、偶発的な両軍の小競り合いが生じた事はあったが戦争に迄は至らず、比較的平穏な年が暫くの間続いた。その間を利用して Ludwig は Bayern に於ける自身の権力の更なる確保に努めた。

 1317 年には Rudolf との間にも和解が成立したが、Rudolf は幾つかの城とその後の経済的な保障を得ただけで、Ludwig が Friedrich der Schöne と戦争状態にある間は、Rudolf は Ludwig の為に Bayern と Pfalz に於ける統治権を放棄し、戦争終結後に改めて再度共同統治を開始するという取り決めを認めざるを得なかった。
しかし Ludwig と Friedrich der Schöne との間の、Roma ドイツ王位を巡る闘争が未だ終結に至らない内の、1319 年 8 月 12 日に Rudolf は亡くなってしまったので、本来生まれ持っていた上部 Bayern と Pfalz の統治権を、彼は 2 度と手にする機会には恵まれなかった。

 1319 年 9 月に Friedrich der Schöne の軍は初めて、上部 Bayern の Mühldorf に迫り Ludwig の軍と対峙した。しかしこの時 Ludwig の軍は戦わずして退却し、Friedrich der Schöne の軍は東 Bayern の Regensburg に迄進み、その進軍地を荒廃させて Ludwig には大きな被害を被らせた。
その後実際の両軍の戦いは 1322 年 9 月 28 日に、同じく Mühldorf に於いて行われた。

 Ludwig 側の陣営には下部 Bayern 公爵 Heinrich XIV. (1305-1339)、Bohemia 国王 Johann von Luxemburg (1296-1346) と Nürnberg 城伯爵 Friedrich IV. (1287-1332) の軍勢が加わっていた。
この戦いでは Friedrich der Schöne の軍が壊滅状態に追い込まれ、Friedrich der Schöne 自身と、彼の弟 Austria 公爵 Heinrich (1299-1327) を始めとして、その他約 1,300 人に至る Habsburg 側の貴族達が捕虜として捕えられた。
Friedrich 以外の貴族達は身代金と引き換えに全員釈放されたが、Friedrich は 1325 年迄、上部 Pfalz の Trausnitz 城に捕らえられていた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 6«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Mühldorf の戦いを描写した
細密画

1334 年に
Hessen 方伯の委嘱により
作成される

 

 

 

 

 

 

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