Memorandum 2013 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 6

 

 


選帝侯 (第6回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 5«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Friedrich der Schöne von Habsburg (1289-1330) と王位を相争う、8 年来の Roma ドイツ王 2 重選挙状態から軍事力によって漸く脱した、上部 Bayern 公爵 Ludwig der Bayer (ca. 1282-1347) が次に得ようとしたものは、Roma 法王 Johannes XXII. (1245/49-1334) による Roma ドイツ王位の承認であった。
しかし自身も France 人で France 王の影響を強く受けていた Avignon 捕囚時代の法王 Johannes XXII. にとって、南 Italia に於ける Anjou 家の勢力を保持するのは重要な課題の一つであり、Roma で行われる皇帝戴冠式に伴うドイツ人による帝国軍の Italia 半島内の行進によって、それが危険に晒される事は避けたかった。

 更に Johannes XXII. は皇帝の不在位期間中の Italia 王国 (当時の Italia 王国は神聖 Roma 帝国領内にあり、その皇帝が Italia 王を兼ねた) に於ける皇帝代行権を持つのは、Roma ドイツ王と Roma 法王の二者では無く、 Roma 法王のみがそれを持つ事が出来ると主張し、Napoli 国王 Robert von Anjou (1278-1343) を、法王の Italia 王国に於ける帝国代行に任命した。

 一方それに対して Ludwig は、Marstetten 及び Graisbach 伯爵 Berthold V. von Neuffen (ca. 1290-1342) を帝国代行に任命して Italia に送り、それまでに認められていた権利を守ろうとする、嘗ての帝国代行達の支持も獲得した。
また Johannes XXII. による後ろ盾を得て、Robert von Anjou が軍事行動に出る事を抑える為に、Ludwig は Milano の Visconti 家を軍事力の面で支援した。

 Johannes XXII. は 1323 年 10 月 8 日に、法王による承認無しに Roma ドイツ王位を主張したとして、Ludwig を Katholik の教会法に基づく裁判に訴えた。同時に Ludwig は 3 箇月と定められた期限迄に王位を放棄し、それ迄に行った Roma ドイツ王としての政治行為を無効化して、Avignon の法王裁判所に現れない場合には破門されるという脅しに晒された。

 それに対して Ludwig は同年 12 月 18 日に、„Nürnberger Appellation” (Nürnberg の抗告) に於いて、使徒聖座 (抽象的な意味における法王座) に対して Johannes の行動を上告し、問題解決の為に公会議の召集を求め、法王が Roma ドイツ王を承認するという権利の要求に対してはこれを拒否した。
また翌 1324 年 1 月 5 日の „Frankfurter Appellation” に於いて、Ludwig は自身が正式に戴冠した Roma ドイツ王と言う立場から、 Roma 法王による Italia 内の皇帝代行に関するあらゆる権利の要求を拒否した。

 これに対し Johannes XXII. はその年の 3 月 23 日に法王に対して不服従な態度を取ったという理由によって Ludwig を破門に付し、Ludwig による為政者としてのあらゆる権利を否定するという事を公に知らしめた。
Ludwig はこの破門に対して同年 5 月に、„Sachsenhausener Appellation” を起こし、その中で初めて帝国の多数決に基づく支配原理に関して言及してそれを強調し、改めて公会議の開催を呼びかけた。また同時に今回の抗告では、当時急進的と捉えられていた 「清貧の要求」 によって、法王との争いに発展していた Francesco 修道会の告発を取り上げ、法王の異端を告発した。
Johannes XXII. はこれにも拘らず同年 7 月 11 日に改めて、Ludwig とその支持者の破門と秘蹟授受停止を宣告した。

 Ludwig は翌 1325 年に、永らく Roma ドイツ王位を相争っていたが軍事力によって負かした Friedrich der Schöne von Habsburg と和解し、その王位の要求放棄と引き換えに、Habsburg 家に属していた領地を正式に Friedrich に封授し、また Friedrich の弟の Leopold I. von Habsburg (1290-1326) の下、相変わらず Ludwig に対抗していた Habsburg 家側の領主達とも和解して、帝国内に於けるこれ以降の対立王存立の可能性を消し去った。

 またもし法王が Friedrich を Roma ドイツ王として認めるならば、Ludwig は王位を放棄するという意思も公開した。 Ludwig は Johannes XXII. がこの争いの収拾にはどんな形であろうと決して応じないだろうとの確信があっての行動だが、 Ludwig 側からは和解を受け入れる意思があるという事を、帝国内に広く知らしめるという戦術上の意図があった。

 これ等の周到な準備を行った上で Ludwig は、久しくそれ以前より法王に対する皇帝支持派から求められていた、Roma 遠征の計画に取り掛かった。
Johannes XXII. の居城は Avignon ではあったが、Italia に於ける Christ 教国家の首長には変わり無く、前述の Napoli 国王 Robert von Anjou を通じて、看過出来ない影響力を Italia に及ぼしていたが、それを弱めるという意図がこの遠征にはあった。

 最後に Ludwig は、王位要求権を放棄させた Friedrich der Schöne von Habsburg を自分の共同統治王に任命し、自身の Italia 遠征の際には帝国内の政治を任せる事とした。
これによって Ludwig は、帝国内の自分に対抗する反対勢力を完全に封じ込め、帝国内側からの自身の地位を脅かされる様なあらゆる危険の可能性を消し去った事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 7«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


France の画家
Robert Bonnart (1652-1733) による
法王庁を望む
1700 年頃の
Avignon の風景画

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.