Memorandum 2014 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 7

 

 


選帝侯 (第7回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 6«
[Archiv / Memorandum 2013 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 極めて周到な準備を行った上で、上部 Bayern 公爵 Ludwig der Bayer (ca. 1282-1347) は最期に、法王に対する皇帝支持派の指導者達との申し合わに従い、また事前に当時 Sicilia を支配下に置いていた Aragon 王国との同盟を予め結んだ上で、1327 年初頭にいよいよ Roma への遠征を開始した。
同年 5 月 31 日にその途上 Ludwig は Milano に於いて、Langobardi の鉄の王冠によって Italia 王としての戴冠式を行った。
その折にそれ迄 Ludwig に従って法王の派遣した軍と戦っていた Milano の領主 Galeazzo I. Visconti (1277-1328) が、独断で教会側と休戦の協定を結んだという疑いをかけられて捕えらえている。

 その間に Roma に於いては法王の代理に反対する民衆の動きが始まってそれを追放し、Roma に於ける皇帝支持派の代表的な有力貴族の一人 Sciarra Colonna (ca. 1270-1329) をその長として、新たに元老院議員が選出された。
Ludwig には 1327 年 10 月 23 日に、Roma 法王 Johannes XXII. (1245/49-1334) によって最終的な異端の宣告が下されていたが、Sciarra Colonna はそれには全く関わる事無く Ludwig を Roma に招いた。

 Ludwig は翌年の 1 月 17 日に、Sciarra Colonna を始めとする Roma の貴族達と 3 人の司教達によって、San Pietro 大聖堂に於いて 「民衆の名の下に」、神聖 Roma 帝国皇帝 Ludwig IV. として戴冠した。
この戴冠式は、いかなる形においても法王が全く関与する事無く挙行された、中世に於いて唯一の皇帝の戴冠式であり、俗人によってそれが執り行われたという事によって、本来の Roma カトリックに於ける秘蹟的儀式の性格は全く失われて、単なる世俗的な行事になったという点で非常に重要な意味がある。

 更に Ludwig IV. は Roma の民衆によって 1 年間 Roma 市の領主に選ばれ、法王庁が置かれていてそれまでは通常使われていた Lateran 宮では無く、元老院のあった Campidoglio (Kapitol) に於いて、法王の関与しない皇帝による治世を保証するという宣言を行った。

 同年 4 月 18 日に Ludwig IV. は法王 Johannes XXII. の廃位を宣言し、それは Roma の平民会議に於ける表決によって改めて確認された。
それに対して Johannes XXII. は Avignon から Roma に Ludwig IV. の破門状を送り付けて来たが、Ludwig IV. は更に Johannes XXII. に対して異端による死罪の宣告を行ってそれに対抗した。
更に同年 5 月 12 日に Ludwig IV. は、Pietro Rainalducci (ca. 1275-1333) を対立法王 Nikolaus V. として即位させ、5 月 27 日に皇帝と対立法王のそれぞれ相互による戴冠式が Roma に於いて執り行われた。

 Ludwig IV. と Johannes XXII. の間の和解の可能性が全く見えない様な状況が続く中、同年 6 月 27 日に Ludwig IV. とその最初の妻 Beatrix von Schlesien-Schweidnitz (ca. 1290-1322) との間の第 6 子二男 Stephan (1319-1375) と、Sicilia 王 Federico III (ca. 1273-1337) の第 5 子二女の Isabella d’Aragona (ca. 1310-1349) との結婚式が執り行われた。

 この両者の結婚には皇帝と Sicilia 王 双方からの同盟関係の確認と言う意味があったが、その後 Ludwig IV. 自身の Italia 半島南方への遠征が失敗に終わったり、Sicilia 王 Federico III の長男 Pietro di Sicilia (1304-1342) の率いる同盟軍の艦隊が壊滅する等の事があって、Ludwig IV. は財政上の困難な状況に陥り、間も無く Roma を去らざるを得なくなる。
それと入れ替わりに、法王に忠実な Anjou 家が再びその地の支配権を獲得する様になった。

 皇帝側に立っていた Italia の幾つもの都市の Ludwig IV. からの離反や、Ludwig IV. にとっての更なる財政上の問題と、最終的には Ludwig IV. が Italia 遠征に出発するに当たって共同統治王として任命し、帝国内の統治を任せていた Friedrich der Schöne von Habsburg (1289-1330) が、1330 年 1 月 13 日に亡くなった事が契機となって、Ludwig IV. は 3 年間に及ぶ Italia 遠征を終わらせてドイツ領内へ戻る事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 8«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Roma の Campidoglio にある元老院
この建物の起源は紀元前 78 年に建設された Roma 帝国の公文書館に遡る
その後 Roma 貴族の Corsi 家が要塞として使用
1150 年頃に元老院がここに移る
その後も度重なる改築を経て現在の姿は
法王 Paul III. (1468-1549) の委嘱により
Michelangelo Buonarroti (1475-1564) の案によって
改築が 1538 年に開始され
その没後は Giacomo della Porta (ca. 1532-1602) が
更にその没後は Girolamo Rainaldi (1570-1655) が受け継いで
1612 年に漸く完成されたもの


手前中央に見えるのは
165 年頃に製作された
Roma 皇帝 Marcus Aurelius (121-180)
の騎馬像

1990 年に元の像は Musei capitolini へ移され
現在は青銅の複製が立つ

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.