Memorandum 2014 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 8

 

 


選帝侯 (第8回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 7«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Roma 法王 Johannes XXII. (1245/49-1334) に対抗して始められて 3 年の長期間に及んだ、神聖 Roma 帝国皇帝 Ludwig IV. (ca. 1282-1347) による Italia 遠征ではあったが、諸般の事情から法王との争いの決着は付けられないまま、1330 年にそれを終わらせて Ludwig IV. はドイツ領内へ戻る事となった。

 1332 年に Ludwig IV. は、もし Johannes XXII. が Ludwig IV. をその破門から解放し、自分を皇帝として認めるならば、法王に対する異端の訴えを退けるという条件を提示して更なる交渉を試みた。
その翌年には、もし自分が法王からの赦免を得るならば、嘗て自身が後見人を務めていた下部 Bayern 公爵 Heinrich XIV. (1305-1339) の為に、自分は皇帝位を退位すると申し出たが、この交渉は更にその翌年の Johannes XXII. の死によって実現せずに終わる。

 Johannes XXII. の後任の Roma 法王 Benedikt XII. (ca. 1285-1342) との交渉は、Italia に於ける権益に大きな関心を寄せる France 国王 Philippe VI. (1293-1350) による干渉や、教会側の政治的な思惑が交錯して、Ludwig IV. の思うようには中々進展しなかった。
そこで Ludwig IV. は、France の前国王 Charles IV. (1295-1328) の死後、先王 Philippe IV.(1268-1314) の孫として王位継承権を主張し、現国王 Philipp VI. の王位継承に異議を唱えて、1337 年に France 国王に宣戦布告を行った、England 及び Wales 国王 Edward III. (1312-1377) との間にその年同盟関係を結ぶ。

 翌年 8 月 30 日から 9 月 7 日迄の間、Edward III. は帝国議会が開かれた折に Koblenz に滞在して、この両者の同盟関係は改めて確認強調され、Ludwig IV. は Edward III. を Rhein 河左岸地域の皇帝代行に任命し、更に France 国王としても認めた。

 これに少し先立つ同年 7 月 16 日に、Koblenz の南方に位置する Köln 選帝侯領の Rhens に於いて、合計 7 人の選帝侯の内 Bohemia 国王 Johann von Luxemburg (1296-1346) を除く、6 名の選帝侯達が集まって選帝侯会議を開いた。
この会議が開催されたきっかけは、Johannes XXII. に引き続いてその後任の法王 Benedikt XII. も同様に、法王による最終的な皇帝の認証権に拘って Ludwig IV. を未だに皇帝として認めず、いつまでも解決しない Ludwig IV. と法王との争いにあった。

 この Ludwig IV. と法王との長期に亘る対立によって、帝国内には反 Roma 法王庁の雰囲気が高まっており、選帝侯達も彼等の多数決選挙のみが Roma ドイツ王を決定するのであって、それに対する法王の確認は必要としないという立場にあったので、この時の選帝侯会議は法王庁に対して異議を唱えるという意味がった。

 この会議に於いては、選帝侯のみが将来の神聖 Roma 帝国皇帝となる Roma ドイツ王を選出して決定する権利を有するという彼等の見解が改めて確認され、無期限に亘る選帝侯間の同盟が結ばれた。
これによって選帝侯達は、この彼等によって布告された権限に対する、皇帝の認証等を始めとするあらゆる法王による帝国への干渉に抗議し、他の帝国諸侯達に対しても帝国の権利を守り、この選帝侯会議による宣言に従うように求めた。

 この 1338 年に開かれた Rhens に於ける選帝侯会議は、帝国憲法に於いても同じく多数決の原理が定められ、その中で 「選帝侯団」 がその原理による一つの組織として創設され確立されたという点に関しても、神聖 Roma 帝国史に於いて大変重要な意味を持っている。
選帝侯団としてはこの時に初めて、Roma ドイツ王の在位する治世期間中に、Roma ドイツ王の選出の為にでは無く、帝国の政治問題の解決の為に集まった。そしてこの時の会議によって、帝国の権利を代表するのは Roma ドイツ王では無く、寧ろ選帝侯団であるという事を明らかに示しており、また今回の宣言によって皇帝と選帝侯団の双方の独立性が明確に示されたという需要な意味も有している。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 9«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


1338 年の Koblenz の帝国議会に於いて
Ludwig IV. が
England 及び Wales 国王 Edward III. を
皇帝代行に任命


詩人で中世の重要な年代記作者
Jean Froissart (ca. 1337 – ca. 1405)
による
Paris で出版された年代記第 1 巻からの図版

この Original は
Den Haag 王立図書館所蔵

 

 

 

 

 

 

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