Memorandum 2014 Nr. 6

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 12

 

 


選帝侯 (第12回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 11«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 5]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1486 年に Roma ドイツ王に選ばれ、同年 Aachen に於いて戴冠した Maximilian I. (1459-1519) は、1508 年に皇帝戴冠の為に Roma へ出向こうとしたが、Venezia 共和国に一行のその領内の通行を拒否された為に、Roma に於ける法王による皇帝の戴冠式は実現しなかった。そこで同年 2 月 4 日に Trient の大聖堂に於いて、Roma 法王 Julius II. (1443-1513) の同意を得た上で、 „Erwählter Römischer Kaiser” (選出された Roma 帝国皇帝) という称号を享受して、Maximilian I. は神聖 Roma 帝国皇帝位に即位した。

 皇帝 Maximilian I. (1459-1519) は、父親の Friedrich III. (1415-1493) が皇帝に在位中であった 1486 年に、既に Roma ドイツ王に選出されている。
この „Römisch-deutscher König” (Roma ドイツ王) という称号は 1125 年以来、神聖 Roma 帝国の支配者が亡くなった後にその後継者として選出された者が、その後皇帝位を戴冠するまでの期間用いられて来たものだが、この Maximilian I. の例以来、現皇帝の生存中に選出されたその後継者と言う意味で使われる様になった。

 Maximilian I. が Roma ドイツ王に選出された時とは違って、Maximilian I. が皇帝在位中に、自身の望む後継者を Roma ドイツ王として選出させる事は出来なかった。
1519 年 1 月 12 日に Maximilian I. が亡くなると、その孫の España 国王 Carlos I. (1500-1558) の他に、1518 年以来帝国大宰相を務めていた Mercurino Arborio di Gattinara (1465-1530)、France 国王 François I. (1494-1547) と England 国王 Heinrich VIII. (1491-1547) が、Maximilian I. の後継者として Roma ドイツ王位に立候補した。
選挙戦の終盤になって更に Roma の法王庁が、Sachsen 選帝侯 Friedrich III. (1463-1525) を推して、Roma ドイツ王立候補者の一人に加えてきた。

  Roma ドイツ王位を巡る今回の実際の争いは、Carlos I. と François I. の間で行われる事となったが、この Roma ドイツ王位を巡る選挙戦は、それ以前にもまたそれ以後の帝国の歴史に於いても、その激しさの点に於いて嘗て例を見る事の無い程のものとなった。
双方共に包括的王朝による Europe の統治という概念に基づき、Europe の個々の国々に対する分割の克服を大きく唱えた。。
また一人の有力な支配者が Europe 内の平和を保障し、西洋を Osmân 帝国の脅威から守るべきだと考えていた。
例えば Netherland の人文主義者 Erasmus von Rotterdam (ca. 1466-1536) 等による、そういう考え方への批判が無かった訳ではないが、その時代に於ける Europe の統一と言う考え方は大変強力なものであった。

 Habsburg 家の一員であった Carlos I. にとっては、過去の Habsburg 家出自の皇帝達や帝国内に占める Habsburg 家という存在の重要性が、この選挙戦の助けとなった。
一方 Carlos I. のドイツ圏外に於ける領地の所有により、それ以前の皇帝達よりも明らかにその権力は大きく、これ以前の Carlos I. の関心の中心となっていた地域が帝国領外であるという点等は、帝国民に対してその支配者の力が強大になり過ぎるのではないかという危惧を、帝国諸侯に抱かせる可能性があった。
そういう点では France 国王の帝国民への影響に対する脅威は無く、その時の Roma 法王 Leo X. (1475-1521) も、Habsburg 家の優勢は食い止めたいと考えていた。

 一方 Carlos I. は自分が François I. とは違い、ドイツ人の候補者であるという点を強調しようとした。しかしたとえ Carlos I. が実際に Habsburg 家に属するとは言え、彼にとってこれはそう容易な事では無かった。
系図を遡ると確かにドイツ人の血統に属してはいたが、Carlos I. 自身は Flandern の Gent に生まれ、後見人であった Margarete von Österreich (1480–1530) により、その Mechelen と Brüssel の宮廷に於いて Burgund の文化の下 France 語で育てられた為に、 Carlos I. は独語を殆ど話す事が出来なかった。

 

 

 

 

 


Albrecht Dürer (1471-1528)
による
皇帝 Maximilian I. の
紋章

1519 年制作

 

 

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 13«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 7]
へ続く

 

 


最上部の写真:


Albrecht Dürer による
1506 年制作の油彩画
「薔薇花冠祭」


花冠を受けている右側の人物が
Maximilian I.
(1486- Roma ドイツ王、1508-1519 神聖 Roma 帝国皇帝)

 

 

 

 

 

 

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