Memorandum 2014 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 13

 

 


選帝侯 (第13回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 12«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 France 国王 François I. (1494-1547) は軍事面での支援を、1519 年以来の 「Hildesheim 修道院の確執」 に関わっていた、Geldern 公爵 Karl von Egmond (1467-1538) から得た。
一方 España 国王 Carlos I. (1500-1558) にとっては、前皇帝 Maximilian I. (1459-1519) が亡くなったその年に、帝国都市の一つ Reutlingen を襲った Ulrich von Württemberg 公爵 (1487-1550) との争いが有利に働いた。

 この襲撃の後 Ulrich は Schwaben 同盟によって Württemberg 公国から追放されている。これによって Habsburg 家は自由になった同盟軍を徴集し、その軍事力を背景にして François I. との選挙戦の間、上部ドイツ地方に影響力を及ぼした。
Württemberg 公国はその後 Habsburg 家の直接支配する国となっている。

 しかしこの選挙戦の動向を最終的に左右したのはこれ等の両陣営による軍事行動では無く、両陣営共にこの選挙で成果を挙げる為に多額の資金を注ぎ込んでいたが、Fugger 家の Carlos I. に対する経済的支援が結果を決定付ける事となった。

 Fugger 家は 1367 年に Graben から自由帝国都市の Augsburg に移住して来た、Schwaben 地方の商人一家で、今回の選挙では帝国領内の広範囲に亘る経済的特権と引き換えに、Carlos I. が大半の選帝侯の票を獲得する事が出来る為の支払いを引き受けると、事前に言明していた。
Carlos I. が今回の選挙戦に費やした費用は凡そ 852.000 Gulden であるのに対し、その内の 500,000 Gulden 以上を Fugger 家が用意している。

 この選挙の投票が実際に行われる前には、Carlos I. の使者と選帝諸侯による交渉が行われた。
ここで交渉された内容は、選挙で選出された後の皇帝及び選帝侯の権利と義務に関する事柄で、1356 年に帝国の最高法規として、当時の皇帝 Karl IV. (1316-1378) によって公布された „Goldene Bulle” (金印勅書) に次ぐ、凡そ帝国憲法の様な内容となっており、最終的には皇帝と選帝諸侯間の契約として書面によって締結された。

 それ以前の皇帝達は即位した後には基本的に制約の無い権力を保持していたが、今回の選挙に於いては帝国史上初めて行われた、選挙前の Roma ドイツ王候補者と選帝諸侯との交渉によって、結果的には Carlos I. が帝国諸侯に対して、将来の帝国の統治及び外交に至る迄の諸点に於いて譲歩するという内容になった。

 この中で Carlos I. は、皇帝、選帝侯と諸貴族及び帝国都市と各地方の代表者からなる、帝国の皇帝との共同統治を目的とした „Reichsregiment” (帝国統治院) の設営、及び帝国諸侯に対する関税、貨幣鋳造、裁判権、皇帝に対する抵当権等を始めとする、各種の特権を認める事となった。
また帝国外勢力による支配への危惧から、帝国の重要な統治機関にはドイツ人のみが選任される権利を有するという事、また帝国民以外の軍人の帝国内への駐留の禁止等が具体的に定められた。
その他にも Roma 法王庁への上納金の上限額が設定され、また大規模な商人組織を解体しようとしたが、これはドイツ北部の大商家達の勢力による反対に遭って叶わなかった。

 これ等の Roma ドイツ王候補者 Carlos I. と選帝諸侯間の合意による、所謂 „Wahlkapitulation” (選挙特約) が交わされた後の 1519 年 6 月 28 日に、Frankfurt am Main に於いて選帝侯による選挙が行われ、España 国王 Carlos I. が選帝侯の全員一致により、次期の Roma ドイツ王に選出された。

 翌年の 10 月 23 日に Aachen に於いて、Roma ドイツ王 Karl V. としての戴冠式が行われ、それ以後 Karl V. は „Erwählter Römischer Kaiser” (選出された Roma 帝国皇帝) という称号を自身で名乗った。その時の Roma 法王 Leo X. (1475-1521) は、戴冠式が挙行された 3 日後にこの称号を承認している。
Leo X. は当初今回の Roma ドイツ王の選挙に関して François I. を支持していたが、この後には Karl V. の側へ立場を変更し、1521 年には France 王国に対する同盟を Karl V. と結ぶ。

 その年からの北部 Italia の覇権を巡る Karl V. と François I. との戦争が始まった。
Leo X. の後任の Roma 法王 Clemens VII. (1478-1534) も、前任者の Leo X. と同様に Karl V. の側に動いてきたが、1526 年に François I. 自身が Karl V. の囚われの身となると、Karl V. との同盟関係を解消して Cognac 同盟に加わった。

 このために皇帝軍は Roma の占領に及び、その結果ドイツ、Spain と Italia 人の傭兵による 「Roma 劫略」 が起こった。
Clemens VII. は取り敢えずは Castel Sant’Angelo に逃れたが、6 月には Karl V. に捕らえられ、Clemens VII. が Medici 家の出身であった為に、Firenze を支配していた Medici 家を Karl V. は Firenze から追放した。

 しかし 1529 年 6 月 29 日に Karl V. は Clemens VII. と Barcelona の和約を結び、Clemens VII. は教会国家の首長としての権利を回復し、Medici 家の Firenze への復帰も許された。
これに対して Clemens VII. は広範囲に亘る教会領の恩貸地制の認容と共に、北部 Italia に於ける Habsburg 家の覇権を認める事となった。
またこの両者の和約により 1530 年 2 月 24 日に Bologna に於いて、神聖 Roma 帝国皇帝 Karl V. の Roma 法王による戴冠式が執り行われた。
この戴冠式が Roma 法王によって行われた神聖 Roma 帝国皇帝最後のものとなった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 14«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Aachen の Dom 内にある
Roma ドイツ王の玉座


790 年代に
Frank 国王 Charlemagne (747/748 – 814)
の委嘱により制作され
それ以後 1531 年に至る間
合計 30 人の Roma ドイツ王が
ここで行われた戴冠式の後
この玉座に座った

 

 

 

 

 

 

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