Memorandum 2015 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 15

 

 


選帝侯 (第15回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 14«
[Archiv / Memorandum 2014 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 特に 16 世紀末から 17 世紀初頭に至る間、宗教改革に端を発する教派対立が、選帝諸侯団及び „Kurfürstentag” (選帝侯会議) にとっては特に大きな重荷となった。
Rhein 地方の選帝侯である Mainz、Köln、Trier の各大司教は、それ迄は所謂 „Kurfürstentag” とは別に „Rheinischer Kurfürstentag” (Rhein 地方の選帝侯会議) として共に集まって来たが、最早 Calvin 主義者となった選帝侯の一人の、Rhein 宮中伯との共同作業を拒否する様になった。
その為に 1583 年に開かれた Rheinischer Kurfürstentag がその最後となり、それに代わるものとして 1585 年以降は „Geistlicher Kurfürstentag” (聖職者選帝侯会議) が開かれて、上記 3 名の大司教のみが集まる様になった。

 また同時に本来の一般的な „Kurfürstentag” に於いては、この教派対立が次第に大きな意味を持つ様になって来た。
この対立に於いて彼等 3 名の聖職者選帝侯達はカトリック主義を擁護する立場に立ったが、この点に関して彼等は事前に打ち合わせて意見を同調させてから会議に臨むという方法を取った。
こうして元来は帝国の重要な問題を調整解決する場であった Kurfürstentag が、次第に教派対立に伴う政治的利害の代弁の場へと変化して行った

 こういう状況が再度変化し始めたのは、1618 年から 1648 年に至る 30 年戦争の時期で、時折 Kurfürstentag がこの戦争の間麻痺状態に置かれた帝国議会の代わりとして開かれる様になった。
この時の Kurfürstentag には帝国外の国々からも代表が送られて来る事があり、何度か特に輝かしい会議となった事もあった。
この会議では、全員が集まって開催する事の出来ない帝国議会に代わって、選帝諸侯が重要な議題を話し合い、最期は議決に迄至る様互いに努めた。

 1629 年 3 月 6 日に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) によって発布された、Luther 派帝国諸侯の了承無しに、帝国内の聖職諸侯領を 1522 年の状態に戻すという „Restitutionsedikt” (復旧勅令) は、1555 年の Augsburg で開催された帝国議会に於いて決議され、帝国内に於ける平和的且つ継続的なカトリックと Luther 派の共存を定めた、„Augsburger Reichs- und Religionsfrieden” (Augsburg 帝国宗教和議) に対する、カトリック側からの解釈の励行という意味があったが、1620 年代の終わり頃にかけて北部ドイツのプロテスタント派勢力は、皇帝及びカトリック連盟軍に対して壊滅的な敗北を喫していたので、帝国内に於けるカトリックの優勢な状況を利用して、皇帝 Ferdinand II. はこの „Restitutionsedikt” を以て、帝国内の継続的なカトリック勢力の増強を目論んだ。

 
 

 

 

 

 


„Restitutionsedikt”
本文の始まり

 

 

 

 しかしこの Restitutionsedikt が実際に実施されていれば、嘗てのカトリック側の領地でその後 Luther 派諸侯の領地となっていた土地の没収と返還が行われ、領地所有関係の大規模な変更が行われる結果となる事が明らかで、そのために皇帝を中心とするカトリック側とプロテスタント側に属する帝国諸侯や自由都市との対立を深め、更なる戦争へと駆り立てる結果となった。

 一方帝国のプロテスタント側諸侯の援助を得る事も狙い乍ら、北部ドイツへの領土拡大を目論んで、1625 年以来 Sachsen に侵攻していた Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) は、Bohemia の貴族で 30 年戦争中の 1625 年から皇帝軍の総司令官を務めた、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いる皇帝軍、及び Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍に、北部帝国領から完全に駆逐され、1629 年 5 月に Lübeck に於いて和平条約の締結を余儀なくされた。

 こういう帝国内の状況の下、1630 年 7 月から 11 月に掛けて Regensburg に於いて、全員が集まるのは 3 年振りとなる Kurfürstentag が開催される事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 16«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 2]
へ続く

 

 


最上部の写真:


1629 年 3 月 6 日に
皇帝 Ferdinand II. によって発布された
„Restitutionsedikt”

第 1 頁

 

 

 

 

 

 

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