Memorandum 2015 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 16

 

 


選帝侯 (第16回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 15«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1630 年 7 月から 11 月に掛けて Regensburg に於いて開催された „Kurfürstentag” (選帝侯会議) は、選帝侯全員が集まるのは 3 年振りという会議になった。
この頃の 1618 年以来の 30 年戦争期間中の帝国の政治状況としては、ドイツ北部に於いてプロテスタント派勢力が、皇帝及びカトリック連盟軍に対して壊滅的な敗北を喫するというカトリックの優勢を利用して、Luther 派帝国諸侯の了承無しに、帝国内の聖職諸侯領を 1522 年の状態に戻すという „Restitutionsedikt” (復旧勅令) が、1629 年 3 月 6 日に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) によって発布されており、また北部ドイツへの領土拡大を目論んで Sachsen に侵攻していた Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) は、北部帝国領から完全に駆逐され、1629 年 5 月に Lübeck に於いて和平条約の締結を余儀なくされたという事態と重なり、皇帝にとってはこの会議での目的を達成するには非常に有利な状態にあった。

 今回の Kurfürstentag は帝国大法官として、Mainz 選帝侯 Anselm Casimir Wambolt von Umstadt (1579-1847) によって全選帝侯が Regensburg に召集され、会議は 1630 年 7 月 3 日に皇帝 Ferdinand II. によって開会された。
3 名のカトリックの聖職界選帝侯は全員本人が出席したが、世俗界選帝侯の内 Sachsen 及び Brandenburg の選帝侯の 2 名は代理の公使を出席させた。

 今回の Kurfürstentag に於ける皇帝 Ferdinand II. の最も重要な目的は、自身の 4 男でこの会議の時点で生存していた長子となる Austria 大公 Ferdinand Ernst (1608-1657) の為に、自分の後継者としての Roma ドイツ王への選出を確実にする事であったが、それ以外にも Habsburg 家の一員であった Ferdinand II. にとっては、1568 年以来の 80 年戦争に於いて Spain 系 Habsburg 家からの独立を戦っていた、後に Nederlanden 連邦共和国を形成する事になる勢力、及び 1627 年以来の Mantova 公国継承戦争に於いて、Habsburg 家と北部 Italia に於ける覇権を争っていた France 王国に対する、帝国の軍事的援助が是非とも必要であった。

 また北部ドイツに於いて、皇帝及びカトリック勢力に大敗して殆ど希望を失っていたプロテスタント勢力を支援する為に、Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) がこの Kurfürstentag が開会されて間も無い 7 月 6 日に、Balt 海に面した Pommern の Usedom 島に 13,000 人の軍隊を率いて上陸するという脅威も発生していた。

 これに対して特に、1623 年以来選帝侯であった Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) は、最近の対プロテスタント戦で見せた皇帝軍の大元帥 Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) 指揮下の皇帝軍の強靭さ、及び帝国内での皇帝自身の権力が更に増大する事を危惧した。
選帝諸侯達は皇帝軍の縮小、皇帝主導による戦争の為の負担の軽減、及び特に Wallenstein の罷免を要求し、その結果 Regensburg の Kurfürstentag に於いては、皇帝が同じくカトリック側の立場にあった選帝諸侯とも対立するという事態となった。

 Ferdinand II. は帝国内に於ける政治的基盤を失う事はどうしても避けたかったが為に、今回の Kurfürstentag に於いてはこれ等の選帝諸侯の要求に大幅に譲歩せざるを得なかった。
Bohemia の貴族で、30 年戦争中の 1625 年から皇帝軍の大元帥を務めて軍功のあった Wallenstein は罷免され、それに代わってカトリック連盟軍の総司令官として功績のあった、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) が彼の地位を継ぐ事となった。
また皇帝軍は差し迫った Sweden 軍による危険に晒されていたにも拘らず、縮小される事となった。

 Mantova 公国継承戦争で対峙した France 王国とは、これ等の状況から Ferdinand II. は和平を結ばざるを得ない状況に追い込まれ、10 月 13 日に Kurfürstentag の場に於いて和平協定が調印されたが、これはその後間も無く France 側より破棄される事となる。
更に Ferdinand II. にとって今回の最重要課題であった、子息 Ferdinand Ernst の Roma ドイツ王への選出は選帝諸侯により拒否され、前年発布の上記 Restitutionsedikt に関しても、帝国諸侯に固有の権利の保全という観点から、その再検討が決定された。

 7 月に Regensburg に於いて Kurfürstentag が開会された時点では、正にその権勢の頂点にあった皇帝 Ferdinand II. は、今回の会議が進行するにつれて、彼にとっては初めての殆ど完全なという事が出来る程の敗北を経験する事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 17«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


„Kurfürstentag”
が開かれた頃の
Regensburg

出版業にも従事した銅版画作家
Matthäus Merian der Ältere (1593-1650)
による銅版画

 

 

 

 

 

 

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