Memorandum 2015 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 18

 

 


選帝侯 (第18回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 17«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 選帝侯団の組織は永らく Mainz、Köln と Trier のそれぞれ大司教からなる 3 人の聖職選帝侯、及び Bohemia 国王、Rhein 宮中伯 (Pfalz 伯)、Sachsen 公爵と Brandenburg 辺境伯 の 4 人の世俗選帝侯の、合計 7 人の選帝侯より構成されるという事が安定して続いていたが、これに最初の変化が現れるのは 1618 年からの 30 年戦争中であった。

 Bohemia 王国は 1526 年以来カトリックの信仰を守る Habsburg 家によって統治されていたが、17 世紀に入ると Bohemia の政治的に影響力を持つ階層は、絶対王政的な統治を目指す Habsburg 家によって、自分達の権利が制限されるのに反発を示し始め、その中でもプロテスタント派の貴族達は、宗教改革後の再カトリック化を目指す Habsburg 家に属する皇帝で、同時に Bohemia 国王でもあった Rudolf II. (1552-1612) とその支持層に対して、強い反対勢力を形成し始めた。

 この頃の帝国は Habsburg 家内での権力闘争、及び 1593 年から 1606 年の Zsitvatorok の和約に至る迄の期間、毎年 Osmân 帝国軍による Habsburg 家領内への攻撃が続いた 13 年戦争の結果弱体化しており、1609 年 7 月 9 日には Bohemia のプロテスタント勢力の要求を受け入れた皇帝が勅許状を与えて、Bohemia 国民に宗教の自由を認めるという事態に至った。
既にこの頃から、この前年に Ansbach 侯爵領の Auhausen に於いて創設されたプロテスタント同盟への、Bohemia のプロテスタント派貴族達の接触が始まっていた。

 1611 年になると皇帝 Rudolf II. と争っていたその弟の Matthias (1557-1619) は、皇帝の Bohemia 支配に対抗して Matthias の側に付いた Bohemia の貴族達の力もあり、Rudolf II. の Bohemia 国王位を廃位し、5 月 23 日に自身が Matyáš II. として Bohemia 国王に即位した。
その後 Praha に於いて孤立状態にあった Rudolf II. が翌年 1 月 20 日に亡くなると、Matthias は何の障害も無く „Kurfürstentag” (選帝侯会議) によって Roma ドイツ王に選ばれ、同年 Frankfurt am Main に於いて、神聖 Roma 帝国皇帝に即位した。

 しかし Habsburg 家に属する Matthias が、カトリックとプロテスタントが対立する関係の中に於いて、カトリック側を代表するという立場は変わらず、その後も Bohemia での信仰上の対立関係や権力闘争の状況は以前と変わる事が無かった。
1617 年になると Matthias は、従弟に当る Innerösterreich 大公 Ferdinand (1578-1637) に Bohemia 王位を譲って、後継国王として戴冠させた。
Ferdinand は絶対王政支配と反宗教改革の思想をを代表する人物であったので、Bohemia に於ける反 Habsburg の動きがその後収斂するという事は全く無かった。

 翌年の 5 月 23 日になると、Thurn 伯爵 Heinrich Matthias (1567-1640) に先導された Bohemia の凡そ 200 人のプロテスタントを代表する貴族達が Praha 宮に集まり、その中にある Bohemia 宮廷官房に丁度その時務めていた、王国総督の Jaroslav Borsita von Martinic 伯爵 (1582-1649) と Wilhelm Slavata (1572-1652)、及び官房秘書の Philipp Fabricius (ca. 1570-1632) の 3 名を、Praha 宮の窓から投擲するという事件が起こった。
窓から城濠の底迄は 17 m もの高さがあったが 3 名共命は取り留め、それを見たプロテスタント貴族による更なる銃撃もかわして、カトリック側の貴族であった Polyxena von Lobkowicz (1566-1642) の保護する隠れ家へ逃げた。

 この事件によって既に 100 年近くになる、Habsburg 家の Bohemia 王冠領の覇権支配に対抗する、プロテスタント貴族による蜂起が始まった。
この蜂起はそれ迄に至る 17 世紀初頭の、中欧に於ける宗教、政治、経済上の危機の結果の一つではあったが、投擲事件に関しては Bohemia 国王のみならず神聖 Roma 帝国皇帝への、プロテスタント側 Bohemia 貴族による宣戦布告の意味であり、この事件がこれ以後長く続く 30 年戦争の直接的な引き金となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 19«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 5]
へ続く

 

 


上部の写真:


1612 年に
Frankfurt am Main に於いて行われた
Matthias の
神聖 Roma 帝国皇帝への戴冠式

 

 

 

 

 

 

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