Memorandum 2015 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 19

 

 


選帝侯 (第19回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 18«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Friedrich V. (1596-1632) は 1610 年以来 Pfalz 伯爵で同時に Pfalz 選帝侯であったが、1612 年に神聖 Roma 帝国皇帝 Rudolf II. (1552-1612) が亡くなった頃から、彼による Bohemia 王国の王位を狙うという思惑が始まった。
この考えはプロテスタント同盟側の侯爵達にも知れていたが、その狙いは選帝侯としての Bohemia 王位を得る事によって、„Kurfürstentag” (選帝侯会議) に於けるプロテスタント側の票の多数を保証する事になり、その結果プロテスタント側の侯爵から皇帝を擁立する事が可能になるという点にあった。
その際に 1611 年より Sachsen 選帝侯で、神聖 Roma 帝国式部長官を務めていた Johann Georg I. (1585-1656) が、Habsburg 家との同盟関係を離れて Friedrich を支援してくれるという事を Pfalz 側では信じていたが、それに特に何か根拠があるという訳では無かった。

 Anhalt-Bernburg 侯爵で 1595 年以来 Oberpfalz の総督であり、また 1608 年に Friedrich V. を先導役としてプロテスタント同盟が結成された折に重要な役割を果たした Christian I. (1568-1630) は、1618 年 5 月 23 日にプロテスタント側の貴族達による、Bohemia 総督等 3 人の Praha 宮の窓からの投擲事件が起こると、Friedrich に Bohemia 王位をもたらす好機到来と考えた。
この政治的事件から時間を置かずに行動して自身の政治的影響力を決定付けるには、Praha から彼の Oberpfalz 総督としての居城 Amberg 迄約 190 kmという、比較的近い地理的条件が彼には特に有利に思えたが、実際には Friedrich の Bohemia 王位獲得に繋がる様な十分強力な派閥を見出す事は出来なかった。

 このプロテスタント側の貴族達による Bohemia 王国総督の投擲事件は単なる宗教上の対立ではなく、神聖 Roma 帝国皇帝への反乱という意味が発生するので、1618 年 6 月 2 日に事件の知らせが Heidelberg の Friedrich の元に届いても、その皇帝に忠誠と恭順を誓った Friedrich にとっては、Praha のプロテスタント側貴族に公に与する事は不可能であって、そのプロテスタント側貴族達と現皇帝 Matthias (1557-1619) からの両方の使者の板挟みになって、その間で解決策を探るという難しい状況に Friedrich は不本意にも追い込まれる事となった。
しかし Friedrich に代わって秘密裡には、Oberpfalz 総督の Anhalt-Bernburg 伯爵 Christian I. が、Praha の反 Habsburg 家側の勢力を支援し続けた。

 Friedrich の Bohemia 王位への立候補の意志は、1618 年 11 月になって初めて公のものとなったが、これに関してどこ迄が本当に Friedrich 自身の意志であり、またその意図を彼自身がどこ迄推し進めたかについては明らかになっていない。
プロテスタント同盟の貴族達もこの考えに対しては、もし Friedrich が Bohemia 王に選出された場合には、帝国全体が宗教戦争に巻き込まれるのではないかと大いに危惧していた。

 Friedrich はこの頃になって漸く反乱貴族側を公に支援する事を決意し、Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) を指揮官とする小規模の軍隊を組織して Bohemia を目指した。
1618 年 8 月にこの軍隊は Bohemia 王国の国境を越えて、国境から凡そ 60 km に位置する Pilsen の町を包囲した。この Pilsen は皇帝に忠実な Bohemia に於けるカトリック側の軍事的要衝であったが 11 月 21 日に陥落し、これによって Bohemia の王国全体がプロテスタント側の手に渡るという事になった。

 翌 1619 年 3 月 20 日に皇帝 Matthias が亡くなると、Bohemia のプロテスタント側の市民達は、嘗て Matthias の後継として 1617 年に Bohemia 国王に即位した、Matthias の従弟に当る Ferdinand II. (1578-1637) を最早彼らの国王としては是認しなくなった。
彼等はこれ以後予想される Habsburg 家側の侵攻から自身を守る為に、Bohemia 各地からの代表が集まって、防衛及び攻撃の為の同盟関係について協議し、その結果 1619 年 7 月 31 日に Bohemia 連合が結成されるに至った。

 この Bohemia 連合では全 Bohemia 王冠領地に亘る新たな憲法が制定され、同時に国王選挙に於ける王冠領地に組み入れられている全州の平等な権利が定められた。
これ等が決定された後、1619 年 8 月の Bohemia 全州の代表が集まった総会に於いて、現 Bohemia 国王 Ferdinand II. の王位剥奪が宣言された。

 この決定によって最終的に、神聖 Roma 帝国皇帝を頂点とする Habsburg 家側と、それに対抗する Bohemia 側とは完全に分断され、戦争そのものが最早誰にも回避出来ない状況となり、遂にこの後 Europe 中を巻き込んで 30 年間に亘って続く事になる大きな戦争へと突入して行く事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 20«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


神聖 Roma 帝国式部長官としての
Sachsen 選帝侯の
紋章

 

 

 

 

 

 

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