Memorandum 2015 Nr. 6

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 20

 

 


選帝侯 (第20回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 19«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 5 ]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Bohemia というあくまで帝国内の一地域にのみ起こった反乱が、その後帝国全体を巻き込む悲惨な戦争へ拡大して行くという事を、当時認識出来た人は余りいなかった様だが、その数少ない人々の中の一人であった、Köln の大司教及び選帝侯 Ferdinand von Bayern (1577–1650) による以下の様な言及が残されている。

 


もし Bohemia 人が
Ferdinand [Bohemia 国王 Ferdinand II.、1578-1637] の
王位を剥奪して
新たな対立国王を選出するという概念に立つならば
直ちに 20 年、30 年或は 40 年に及ぶ
戦争に捉えられる事にしかならないだろう

 


 Bohemia の市民達は彼等が結成した Bohemia 連合の規約に則り、新国王選出の為の選挙の準備に取り掛かった。
Bohemia プロテスタント の穏健派を代表する Passaun 及び Weißkirchen 伯爵 Joachim Andreas von Schlick (1569-1621) によって、Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) は Bohemia 新国王への立候補を依頼された。

 しかし Sachsen 公国に於いては Luther 派が優勢で、帝国内のプロテスタント派を導くべき有力な勢力という立場に運命付けられてはいたものの、当時政権を握っていた Wettin 家とその政府は、1555 年の Augsburg の帝国議会で決議された、帝国内に於ける平和的且つ継続的なカトリックと Luther 派の共存を定めた、„Augsburger Reichs- und Religionsfrieden” (Augsburg 帝国宗教和議) をその軸とする、均衡政策を伝統的に保持しており、また Sachsen の Luther 派の指導勢力は、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の先導する、Calvin 派との接触は明確に拒否していた。
その為にカトリックを堅持する Habsburg 家の皇帝側と、伝統的に選帝侯及び帝国式部長官も務める Sachsen 公爵との友好な関係は保たれており、 Habsburg 家との対立関係を望まない Johann Georg I. は、Joachim Andreas von Schlick による Bohemia 王位への立候補の依頼を当然ながら拒否した。

 Johann Georg I. は 1619 年 3 月 20 日に皇帝 Matthias (1557-1619) が亡くなると、次期皇帝が選出されて戴冠する迄の期間の帝国皇帝代理として、同年 8 月 28 日の Ferdinand II. (1578-1637) の皇帝選出に至る迄その後援をする事によって、その立場を改めて公に表明している。
最早敢えて誰も Habsburg 家の Ferdinand と対立する危険を好んで冒す者がいない中、それでも Bohemia 王位への候補者として残るのは、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. のみとなった。

 8 月 16 日になると 上部 Austria と下部 Austria の市民達が、Bohemia 諸州による反 Habsburg 連合に加わり、また同月 Hungary 王国領内で現在の Slovakia 共和国に当たる地域の、反 Habsburg 家蜂起の首謀者、Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) の率いる軍隊が、Habsburg 領内の上部 Hungary に侵攻して Košice 市を占領するという事もあって、Bohemia 王国に於ける Friedrich V. への権力の移行への機会としては、時期的にそう悪くはなかったが、正にその時期というのは Ferdinand II. が選帝侯の一人として、皇帝選出の選挙の為に Frankfurt am Main へ向かう途上にあった時でもあった。

 1619 年 8 月 26 日には Bohemia 連合に加盟する全州の代表からなる会議が開催され、そこで現国王 Ferdinand II. の王位剥奪が宣言され、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. が Bohemia 国王に選出された。
丁度その 2 日後には Frankfurt am Main に於いて、皇帝選出の為の „Kurfürstentag” (選帝侯会議)が開催せれた。
この時 Friedrich V. は未だ居城の Amberg に居て、自身が国王に選出された選挙の報告を受けており、Kurfürstentag には Bohemia 連合からの代表が代理で出席していた。

 その Kurfürstentag に Bohemia 連合の使節団が赴いて発言を試みたが、Friedrich V. の代理人以外の全選帝諸侯によってそれは拒否された。
また Bohemia 王は 7 人からなる Kurfürstentag を構成する一員として、皇帝選出の為の投票権を持っていたが、Friedrich V. をその領主とする Pfalz 選帝侯国の代表団の抗議にも拘らず、Bohemia 王としての選挙権は皇帝への反乱勢力によって選出された Friedrich V. では無く、前国王 Ferdinand II. が保持するものと認められた。

 カトリック側の選帝侯が多数を占める Kurfürstentag に於いて、Habsburg 家からの皇帝選出を Friedrich V. が抑え込む事は叶わなかったが、そればかりでは無くプロテスタント側に属する Sachsen と Brandenburg の選帝侯も、カトリックの Habsburg 家側に投票し、Bohemia 王を廃位された Ferdinand II. が神聖 Roma 帝国の新皇帝に選出された。

 

 


Ferdinand von Bayern
による言及の原文は省略
日本語訳及び [ ] 内の補注は執筆者による

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 21«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 7]
へ続く

 

 


1630 年の Regensburg に於ける
„Kurfürstentag”
に関しては
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 2]
を参照

 

 


上部の写真:


1619 年に
Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. が
前皇帝の没後から新皇帝戴冠迄の期間
皇帝代理を務めた時に鋳造された
1 帝国 Taller の
記念貨幣


選帝侯の礼服を着た騎乗の
Johann Georg I.
及び
神聖 Roma 帝国式部長官としての
Sachsen 選帝侯の
紋章が描かれている


刻まれている銘文は
PRO LEGE ET GREGE
(法と民の為に)

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.