Memorandum 2015 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 21

 

 


選帝侯 (第21回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 20«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 6 ]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1619 年 8 月 26 日に Praha で行われた Bohemia 連合による選挙に於いて、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) が Bohemia 国王に選出された。
その 2 日後に Frankfurt am Main では皇帝選出の為の選帝侯会議が開催されたが、その一員であった Pfalz 選帝侯としては、Friedrich V. 自身では無くその代理として家臣が出席していた。
選帝侯団による選挙に於いて最初に行われた投票では、Pfalz 選帝侯の使節は Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) に投票し、他の選帝諸侯は 2 日前の Bohemia 連合による会議及びそこでの選挙によって Bohemia 国王を廃位させられた、Habsburg 家の Ferdinand II. (1578-1637) に投票した。

 しかし選帝侯団の全員一致による皇帝選出という理想的な結果に到達する為に、Pfalz 選帝侯の使節は当初の Maximilian I. への投票を取り下げて、最終的には Ferdinand II. に投票した。
これによってこの選挙は、選帝諸侯の全員一致による Ferdinand II. の新皇帝への選出という直接的な結果ばかりではなく、この決定によって Ferdinand II. の Bohemia 国王位の廃位、及びそれに代わる新たな国王の選出が違法な行為である事を全選帝侯が確認したという意味になり、またそれと同時に帝国内に於ける Pfalz 伯領、及びその領主の Friedrich V. の立場は脆弱なものとならざるを得なかった。

 丁度この皇帝選挙が行われた当日に、Bohemia 連合による Friedrich V. の Bohemia 国王への選出の知らせが Frankfurt am Main に届いた。Friedrich V. は更にその翌日に居城の Amberg に於いてその知らせを受けている。
Friedrich V. 自身が選帝侯会議に出席していなかった為、その代理使節として Frankfurt am Main に赴いていた Pfalz の宮廷顧問官達は Friedrich V. に対して、Bohemia の国王位の受諾を思い止まらせようとする内容の答申書を送っている。

 それにも拘らず最終的に Friedrich V. は Bohemia 王位を受け入れる事になるが、その明確な理由はその後にも明らかにはなっていない。
彼が Praha へ向けて旅立つ直前に、自身を正当化する目的で記したものの中で、「神に与えられた使命」 と表現したり、自分を 「新教の十字軍騎士」 に例えたりしている事から、長く望んでいたであろう身分階級の昇進以上に、宗教的な理由が大きいとも考える事が出来る。
しかしその意思が力強く確固としたものであった訳では無く、同じ信仰仲間の正当な権利の主張を助けたいという欲求と、侵す事の出来ない神聖な誓いを立てた、神聖 Roma 帝国皇帝への責務の間で、絶えず彼の気持ちは揺れ動いている。

 このような政治宗教上の動機に加えて、Pfalz 地方は当時 Europe の鉄生産の中心であり、一方 Bohemia は錫と Glass 製品の商取引の中心地で、この 2 つが結び付く事によって生じる可能性のある、新たな輸出産業の拠点という経済上の理由もあったと考える事が出来る。

 Friedrich V. の父親の Friedrich IV. (1574-1610) がその一員となって、1608 年に結成されたプロテスタント同盟の会議が、この年の 9 月 12 日に Rothenburg ob der Tauber で開かれたが、そこで Friedrich V. に対して、彼が Bohemia の件に干渉しない様にという勧告を行う事を、過半数の意見で決定している。
またこのプロテスタント同盟の決定の他にも、帝国のプロテスタント勢力と同盟関係にある Nederlanden 連邦共和国、Venezia 共和国や Savoie 公国等も、この Bohemia の件で Friedrich V. を軍事面にしろ経済面にしろ後援するという姿勢は見せなかった。

 これに対して Friedrich V. の Bohemia 国王位受諾を後押しするような動きとしては唯一、反 Habsburg 家の姿勢を明確に示し、この少し前に Habsburg 領内の上部 Hungary の Košice 市への侵攻を行ったその首謀者、Siebenbürgen 侯爵 Gábor Bethlen (ca. 1580-1629) が、Friedrich V. に対して勇気付けるような内容の手紙を送っただけであった。

 しかしこれ等の各所からの勧告や警告にも関わらず Friedrich V. は、同年 9 月 24 日から 28 日の間に、「全能の神の意志に逆らわない」 という決心をし、選挙による Bohemia 王位の受諾を決定する。
Nederlanden 連邦共和国、Denmark 王国、Sweden 王国と Venezia 共和国がその王位を承認したが、帝国内のプロテスタントの諸侯全体との協調関係は成立しなかった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 22«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


1612 年 6 月 13 日に
Frankfurt am Main に於いて行われた
選帝侯団による
皇帝選挙

この時に選ばれたのは Matthias (1557-1619)


この時に選出された皇帝 Matthias の
1619 年 3 月 20 日の死亡によって
同年 8 月 28 日に
同地に於いて行われた選挙によって
Ferdinand II. が
次の皇帝に選出される


この 2 回の皇帝選挙は
Bohemia 王が
Matthias から Ferdinand II. に
代わった以外は
全員同じ選定諸侯によって行われた

 

 

 

 

 

 

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