Memorandum 2015 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 22

 

 


選帝侯 (第22回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 21«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1619 年 9 月末に最終的に Bohemia 王位の受諾を決定した Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) は、9 月 27 日に Bohemia 王国の首都 Praha を目指して、その居城があった Heidelberg を出発する。
途上 Oberpfalz の Waldsassen に於いて、Bohemia 連合の代表団による歓迎を受ける。

 そこを出て国境の町 Cheb から Bohemia 王国領に入り、Sokolov、保養地で有名な Karlovy Vary の近郊の町 Andělská Hora、更には ŽatecLouny と Louny を経て、嘗ては Bohemia 国王在住の都市であった Slaný に至る。
これ等の経路は新国王への歓待を確実なものとする為に、Praha の政府の一員となている領主達の所領を通過するという観点から選ばれている。
同年 10 月 31 日に 100 代の馬車と 568 人の従者達を従えて Friedrich V. は Praha に到着し、市民達からの大歓迎を受けている。

 Friedrich V. の Bohemia 国王への戴冠式は、Praha 城塞の中にある国内で最大の教会建築であった St. Veits-Dom に於いて、1619 年 11 月 4 日に行われた。
この戴冠式はそれ以前のしきたりの様に Praha の大司教によって行われたのでは無く、Bohemia のプロテスタント派宗教局の長老 Johannes Cyrill von Třebič の補助の下、Bohemia 国民の半数以上が属していた Huss 派の中の中道一派である Utraquist 派の一員で、Praha 大司教区管理官の Georg Dicastus によって執り行われた。

 この両名は Praha の大司教に対して Bohemia の反カトリック側を代表する立場にあったが、戴冠式自体は部分的な祈りの言葉が多少変更された以外は大部分が、嘗て皇帝 Karl IV. (1316-1378) が定めた手順に従って行われた。その中では典型的なカトリックの典礼の一つである Allerheiligen (万聖節) の連禱が歌われ、また Calvin 派にとっては全く意味のない塗油の儀式も少し変更が加えられただけで行われている。
戴冠式の後に新国王は市民からの忠誠の誓いを受けて、儀式は滞りなく行われた。

 Bohemia 王国はこの時既に 30 年戦争によって国土の多くが荒廃し、数多くの難民が Praha の町には押し寄せて来ていたが、Pfalz での Friedrich V. の宰相として力を尽くした Anhalt-Bernburg 伯爵 Christian I. (1568-1630) の手腕や、事前に Friedrich V. が Bohemia の市民達に対して、その市民憲章への保証を約束して与えた事、また Friedrich V. と共にその夫人が妊娠後期という状況にも拘らず Praha 迄の厳しい旅を行った等の事情が重なって、Praha では新国王の到着とその戴冠が、市民達により盛大な祭典を以て大いに祝われた。

 Bohemia 国民から大いに歓迎されて王位に就いた Friedrich V. ではあったが、Bohemia 王国の国家財政はそれ以前から既に危機的状況にあり、Habsburg 家から王位を奪い Friedrich V. が選出された国王選挙へと進んだのは、宗教対立のみが原因であったのでは無く、Habsburg 家による対 Osmân 帝国戦争の為の重税負担が大きな理由であった。そのために Friedrich V. の治世に於いて彼が、Habsburg 家とカトリック連盟に対する戦争で成果を上げるには必須であった資金調達の為に、税率を大きく上げる事に対して Bohemia の貴族達による同意を得る事は出来なかった。

 新国王の下の Praha の宮廷は、主にドイツの Calvin 派の人々が中心になって構成されていたが、Czech 語を全く話す事が出来ない国王夫妻と、その宮廷に対する批判が間もなく起こり始め、それは次第に市民達と一部の聖職者や貴族達からの彼等に対する拒否へと繋がって行った。
Praha に於ける国政の役職の多くは外国人によって占められる一方、地方では地元の貴族達が役職を担っているので、国王と地方の人々の間の発展的な関係が築かれ難いという問題もあった。

 一方で Bohemia 国王を廃位させられ、Friedrich V. がそれに代わる Bohemia 国王に選出されたのと殆ど同時期に、神聖 Roma 帝国皇帝に選出された Ferdinand II. (1578-1637) は、彼から奪われた Bohemia 王位の奪還を企てて、その支持者を自分の周りに集め始めた。
しかし自身で Friedrich V. に対する軍隊を組織する財力には恵まれていなかったために、カトリック連盟の指導的立場にある Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) との間に、1619 年 10 月 8 日契約が結ばれた。

 それによると Maximilian I. は Bohemia に対する軍事行動の全指揮権を委ねられ、その下で占領された地域は全て、彼の支出に対する担保として Maximilian I. に与えられる事を皇帝は認めると定められた。またその契約に伴う秘密条項では、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. の敗退後には、その選帝侯の権利を Maximilian I. に与えるという事を Ferdinand II. は保証している。
Bayern 公爵 Maximilian I. は、カトリックとプロテスタント双方の諸侯の同盟関係の為に、帝国憲法を守るという立場をそれ迄は代表していたが、Friedrich V. のこれ迄の一連の行動の結果、皇帝でカトリック側を代表する Ferdinand II. の方に押しやられた事になる。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 23«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 1] へ続く

 

 


上部の写真:


Praha 王宮内 の
St. Veits-Dom に於いて行われた
Friedrich V. の
Bohemia 国王への戴冠式

1619 年制作

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.