Memorandum 2016 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 23

 

 


選帝侯 (第23回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 22«
[Archiv / Memorandum 2015 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Bohemia 国内に於いては、新国王となった Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632、Bohemia 国王としては Friedrich I.) に対する批判や国民の不満が起こり始め、また前 Bohemia 国王で現神聖 Roma 帝国皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) による、Bohemia 王位奪還を狙う動きが見える中で、Friedrich V. の宰相 Anhalt-Bernburg 伯爵 Christian I. (1568-1630) は、Friedrich V. に対する Sachsen 選帝侯とその他のプロテスタント派諸侯達の助勢を得る為に、プロテスタント派の全諸侯を中心とするその勢力の代表者達を、合議に招待してはどうかと Friedrich V. に進言した。

 この合議は 1619 年 12 月に Nürnberg に於いて開催されたが、使節をその場に送った侯爵は一人もおらず、参加者達はかろうじて Friedrich V. が Praha に留まってその Rhein の領地に不在の間、その Rhein の領地を確保するという事を止む無く合意出来たのみで、本来の目的からは大失敗に終わった。
Christian I. がこの時最も当てにしていた Luther 派の Sachsen 選帝侯 Johann Georg I.(1585-1656) でさえもが、 Bohemia 国王位への野望を抱いて Friedrich V. に対している皇帝 Ferdinand II. の側に与した為、この合議には使者を送る事さえしなかった。

 これに対して 1620 年 3 月に Mühlhausen に於いて皇帝派の会議が開催され、Friedrich V. が自身の Bohemia 国王位を正当化している立法上の主張が否決された。
Friedrich V. は弁明書の中で、Bohemia は帝国領域外の国であるので、彼と Ferdinand II. との争いは帝国侯爵と皇帝間の争いでは無く、従って彼は帝国内の平和を乱している訳では無いので、Ferdinand II. は皇帝としての権力を彼に行使する事は出来ないであろうと主張している。
それに対して Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. 及び Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) の代理使節を含むその会議では、Bohemia は帝国の不可欠な構成部分だと宣言されている。

 この決定を踏まえて皇帝は同年 4 月 30 日に使者を Friedrich V. の許に派遣して、6 月 1 日迄に Bohemia から退去する様に、もしこれを実行しない場合には Ferdinand II. は、皇帝及び正当な Bohemia 国王という資格によって、王位簒奪者を鎮圧する為にあらゆる軍事力を動員するであろうという最後通告を送った。

 その後間も無く Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. と皇帝 Ferdinand II. は、Luther 派に属する Johann Georg I. の軍事行動の為に、Ferdinand II. はその後の Bohemia 国内に於ける Luther 派の信仰を保証し、また帝国領内の嘗てはカトリックに属する教会領地であった、上部及び下部 Sachsen の世俗化地域を承認するという契約を結んだ。
Luther 派の Sachsen 選帝侯がカトリック側の皇帝の為に動くというこの契約により、帝国内のプロテスタント派閥の勢力は弱められる事になったが、また同時に Sachsen 侯国に Lausitz 地方が与えられる事によって、皇帝権力の地位も同様な結果となった。

 この様な状況の下 Friedrich V. は、1620 年 3 月 25 日に開かれた Bohemia の議会に於いて、大幅な税金と課役の引き上げ、及び総徴兵制によって Ferdinand II. に対する敗退を回避しようとした。また Bohemia 軍を調える資金を調達する為に Friedrich V. は、宝石類を抵当に入れる等して個人的資産を用い、また同年 5 月には Pfalz に蓄えていた 2 t の金塊を Bohemia に運ばせたために、Pfalz 選帝侯国は支払い不能状態に陥った。

 Friedrich V. にとって好ましくない状況は更に続いた。
彼の義理の父親に当たる Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) は、Friedrich V. のこれ等に始まる一連の行動を非とする立場を取り、帝国内のプロテスタント同盟に属する諸侯は中立の立場を保持しようとした。

 更に彼等は前述の 1619 年 12 月の Nürnberg の合議に於いて、Friedrich V. が不在の間の Pfalz の防衛が義務付けられていたにも拘らず、 1620 年 7 月 31 日に Ulm に於いて協約を締結し、Pfalz に駐在していた彼らの軍をそこから引き揚げた。
また Nederlanden 連邦共和国からは、月当たり 50,000 Gulden の供与と、Bohemia 軍の補強の為に少人数の兵員を Friedrich V. は得たのみであった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 24«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Praha
王宮

 

 

 

 

 

 

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