Memorandum 2016 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 24

 

 


選帝侯 (第24回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 23«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1605 年以来 España 領 Nederlanden に於いて、Holland、Zeeland、Utrecht、Geldern と Overijssel の総督で、また Nederlanden 連邦共和国陸海軍の総司令官であった、Moritz von Oranien 侯爵 (1567-1625) の率いる軍と対峙していた、España 軍の総司令官 Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) は、1619 年の 8 月に Praha で行われた Bohemia 連合による会議及び選挙によって、国王 Ferdinand II. (1578-1637) が廃位させられ、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) が新国王に選出されたという事が明らかになると、Nederlanden 及び当時神聖 Roma 帝国領であった、Rhein 河西岸の Alsace 地域に駐留していた皇帝の軍隊を集め始めた。
1620 年 6 月 23 日にその皇帝軍を率いての Friedrich V. の領地、Pfalz 侯国への進軍の命令が Ambrosio Spinola に下された。

 1609 年のカトリック連盟の結成以来その中心的な立場にいた Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) は、1619 年 10 月 8 日に München に於いて、神聖 Roma 帝国皇帝に即位した Ferdinand II. と、カトリック連盟の名に於いて協約を締結した。

 それによると連盟は皇帝の支援の為に 30,000 人の軍隊を用意するが、実質的にはその軍隊が Maximilian I. の指揮下に置かれる事になり、同時にその費用も公爵が負担する。それに対して皇帝は先ずその軍隊によって占領した地域の支配権を Maximilian I. に認める事で、その費用の返済を公爵に保証し、もし Bayern 公国領内の地域が占領された場合には、皇帝に属する Habsburg 家の世襲領地内の土地を以てそれを埋め合わせる。
更に Friedrich V. の帝国領内からの追放の後には、その Pfalz 侯国に属していた選帝侯権をそれ以後は Bayern 公国に移譲し、上部 Pfalz の領有も Maximilian I. に認めるという事も、秘密条項として取り決められた。

 この協約に従って 1620 年 7 月 23 日になると、Maximilian I. は 25,000 人のカトリック連盟の軍隊を率いて、Habsburg 家世襲領内のプロテスタント勢力を制圧する為に、Bayern 公国から国境を越えて Austria 大公国領内へと進軍し、そのプロテスタント側の貴族達が Bohemia 連合に同調加担していた、Österreich ob der Enns 公国 (現在の Austria 共和国内の上部 Austria 州) を占領した。

 また同年 8 月初旬には 25,000 人の軍隊を率いて Ambrosio Spinola が Flandre 地方から進軍し、当初は Bohemia 王国を目指していたが、その月の 3 週目に入ると突如方向を変え、殆ど防衛力の無い状態にあった Pfalz 侯国へと向かって、先ずは Mainz を占領した。
9 月 5 日に Ambrosio Spinola の率いる皇帝軍は Rhein 河を超え、同月 10 日に Kreuznach、14 日に Oppenheim を占領する。
Bohemia 国内に居た Friedrich V. は、これ等の自身の本来の領地に対する皇帝軍による侵攻を、只見守る事しか出来なかった。

 Österreich ob der Enns 公国のプロテスタント勢力を一掃して、その首都 Linz に達した Maximilian I. の率いるカトリック連盟軍は、同地に進攻した残りの皇帝の軍隊と合流し、9 月 26 日に Bohemia 王国との国境を超える。
それから間も無い翌月 5 日に、Sachsen 選帝侯の軍隊が北側から Bohemia 領内に進攻した。

 Bohemia 王国の首都 Praha から凡そ 70 km 西南に位置する Rokycany に於いて、Maximilian I. は Friedrich V. の率いる Bohemia の軍隊と初めて対峙する。
その 15,000 人程から成る Bohemia 王国の軍隊は様々な人々の寄せ集めから成っており、彼等への支払いは悪く装備は不十分で、殆ど反乱の寸前という状態であったという。 Friedrich V. もその Rokycany の駐屯地に居たが、彼自身は軍隊を率いる経験に乏しく、その為に戦争遂行の指揮は将軍達に任せており、彼は防備、補給や負傷者の手当て等を采配していた。

 両軍による小競り合いが暫く続いた後、11 月 5 日に Friedrich V. は軍隊を Praha の方向へ退却させ、皇帝軍はそれを追って進軍した。
11 月 7 日に Bohemia 軍は Praha の町に殆ど迫る、その西側に位置する標高 379 m の Bílá hora (白い山) に達してそこに陣を構えた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 25«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


1608 年に成立した
プロテスタント同盟に対抗して
1609 年に結成された
神聖 Roma 帝国の
カトリック連盟の旗

 

 

 

 

 

 

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