Memorandum 2016 Nr. 3

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 25

 

 


選帝侯 (第25回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 24«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 2]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1620 年 11 月 7 日に Bohemia 軍は Praha の西側の近郊に位置する標高 379 m の Bílá hora (白い山) に達して、対する軍隊を迎え撃つには大変有利なその斜面に陣を構えた。
Bohemia の新国王となった Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) は、そこから、Bohemia の議会に対して彼の軍隊への金銭的支援を嘆願し、また Friedrich V. がかねてより軍事財政両面での支援を熱望していた、彼の義理の父親に当たる Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) からの使者を歓待する為に、Praha の王宮へと急いだ。

 上部 Pfalz の総督で Friedrich V. の宰相、Anhalt-Bernburg 伯爵 Christian I. (1568-1630) に率いられた、Bohemia、Moravia と Silesia の各地域からの部隊、及び Österreich ob der Enns (現在の Austria 共和国の上部 Austria 州) の軍隊から成る、プロテスタント側の Bohemia の軍と、Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) に率いられた、カトリック連盟、及び皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の軍による戦いは、Bílá hora の麓に於いて 1620 年 11 月 8 日に行われた。

 凡そ 30,000 人の兵力から成るカトリック連盟と皇帝の軍隊に対して、約 21,000 人の Bohemia 王国側のプロテスタントの軍隊にょる戦いは長くは続かず、既に開戦から 2 時間後には決着が付いていた。
その日の昼頃 Praha の王宮から Bílá hora の部隊へ戻ろうとした Friedrich V. は、丁度市壁の門の所で戦場から逃れて来た彼の軍隊の兵卒と、それを指揮していた Friedrich V. の宰相 Christian I. に出会い、Bohemia 王国軍の惨敗を知らされる。

 Friedrich V. が 1610 年に 14 歳で Pfalz 伯爵及び Pfalz 選帝侯に即位した時から父親代わりの相談役となり、その後 Friedrich V. が満 18 歳の誕生日に Pfalz の全統治権を得てからも、その直後に彼が罹った発熱以来襲われる様になった無力感、睡魔や憂鬱状態と、更には若さと無経験さもあって、Pfalz 選帝侯国の政治を実質的には Christian I. が執り行って来たが、今回の敗戦に当たって彼が Friedrich V. にその時提言出来たのは、即座の逃亡のみであった。

 僅かの顧問官を従えて Friedrich V. とその夫人は翌 11 月 9 日の朝に、Silesia 公国の首都 Breslau を目指して Praha の町を抜け出した。
町では丁度市民達が Friedrich V. を、カトリック連盟及び皇帝軍の司令官 Maximilian I. に渡そうと騒ぎ始めていた時なので、この逃亡は最後ギリギリの瞬間に行われた。
Praha の市壁の門は前日の戦い以来、市内へ逃げ帰ろうとする兵士達がいたにも拘らず固く閉ざされていたが、この Friedrich V. の慌しい逃亡の後に門は開けられ、Praha の市民達によって Maximilian I. に早速恭順の意が示された。

 現在の Czech 共和国北東端の国境の町 Náchod と、同じく Poland 共和国側の Kłodzko を通って Breslau に到着した Friedrich V. は、何としても Bílá hora での敗北を復仇したいと考えたが、Silesia の貴族や市民達からの支援を得る事は叶わなかった。
そのために Friedrich V. は翌 1621 年初頭に、Brandenburg 選帝侯国を目指して Silesia 公国を後にする。

 1621 年 1 月 29 日に皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) は、Friedrich V. と Anhalt-Bernburg 伯爵 Christian I. (1568-1630) を、公安妨害、帝国法の侵害、叛臣幇助及び大逆罪によって、帝国平和喪失刑 (平穏と全権利の喪失) に処し、Bayern 公爵 Maximilian I. を Friedrich V. に対する帝国平和喪失刑の執行者に任命した。

 帝国平和喪失刑に処された Friedrich V. を助けた場合には、誰に対してでも制裁処置が課される危険を被る事になるので、帝国内であれば Friedrich V. が何処に逃れたとしても、その逃亡滞在先で歓迎や支援を受ける事は難しいという状況になった。
この為に Friedrich V. は Nederlanden 連邦共和国への亡命を目指し、Brandenburg や Wolfenbüttel を経て、この年の 3 月にそこに到着した。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 26«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 4]
へ続く

 

 


上部の写真:


Bílá hora (白い山) の
戦いの様子

1620 年

 

 

 

 

 

 

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