Memorandum 2016 Nr. 4

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 26

 

 


選帝侯 (第26回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 25«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 3]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 前 Bohemia 国王で、現神聖 Roma 帝国皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) に対して叛乱を起こした Bohemia の造反者達にとり、Bílá hora (白い山) の戦いでの皇帝軍に対する完全な敗北は、それに続く悲惨な結果をもたらす事になる。

 先ず 1621 年 6 月 21 日に Ferdinand II. は、Praha の市役所前の広場に於いて 4 時間半に亘る見世物として、28 人の Bohemia のプロテスタント貴族の公開処刑を行った。
更にその処刑された貴族の内 12 人の頭と、叛乱者達の中でも主導的な役目を果たした一人、Passaun 及び Weißkirchen 伯爵 Joachim Andreas von Schlick (1569-1621) の右手を、Praha の王宮と市街地の間を流れる Vltava (Moldau) 河に架かる、Karlův (Karl) 橋の塔に釘付けにし、その後 10 年間に亘って国王への叛乱の警告とした。

 処刑されなかった数千人に及ぶプロテスタント派の叛乱貴族達は全員の財産が没収され、亡命へと追いやられた。ただカトリックへの改宗をした者達だけに、この処分からの恩赦を望む事の出来る可能性が残された。
これ以後何年にも亘って Bohemia 王国は、神聖 Roma 帝国の敵国地として皇帝軍の占領下に置かれ、法の下に秩序を維持するという社会状態では無くなり、この間の唯一の法というものは Bohemia 国王に復位した Ferdinand II. の命令のみであった。

 こういう状態に終止符を打つ事になったのが、1627 年 5 月 10 日に Ferdinand II. によって、新しく改定し布告された Bohemia 国法であった。
この新しい国法によって、それ迄認められていた Bohemia 王国の各階級者達の権利は、かなり多くの部分に亘って剥奪される事になり、またそれ迄行われて来た様に、選挙によって選出された国王が Bohemia 王国を統治するという制度は完全に廃止され、これ以後 Bohemia 王国は Habsburg 家の世襲領地とする事が宣告された。

 また 1609 年 7 月 9 日に、その時の神聖 Roma 帝国皇帝で Bohemia 国王でもあった、Rudolf II. (1552-1612) が発行した勅許状によって、それ以降全ての Bohemia 国民に認められていた信教の自由は Ferdinand II. によって破棄され、カトリックが Bohemia 国内で認められる唯一の宗教と定められた。
唯今回の Bílá hora の戦いに於いて、皇帝軍側に与して戦った Sachsen 選帝侯 Johann Georg I. (1585-1656) に配慮をして、プロテスタントの中の Luther 派だけは暫くの間は例外として許容された。

 更に Czech 語に並んで独語が公用語として定められ、各役所の部門は全てに亘って国王の裁量の下に於かれる事になり、それによってひいては誰に Bohemia 市民としての権利を与え、また誰が議会に参加する権利を有するかという事を、国王唯一人が決定出来る事となった。
これ等の内容によるこの新しい Bohemia 国法によって、計画的でまたこの後にしばしば圧政的にも行われた、Bohemia の王国全土に及ぶ再カトリック化と、Habusbur 家による絶対的支配への道が準備される事となった。

 これ以後 Bohemia 王国は、1918 年の第 1 次世界大戦の終盤頃に、Austria 帝国皇帝 Karl I. (1887-1922) の帝位の放棄によって Austria-Hungary 帝国が崩壊し、その結果 Czechoslovakia 共和国が成立して独立を果たす迄の殆ど 300 年に亘る間、Habsburg 家による君主政体の一部であり続けた。

 一方公安妨害、帝国法の侵害、叛臣幇助及び大逆罪によって帝国平和喪失刑に処されている、Bohemia 国民の選挙によって選ばれた前 Bohemia 国王の Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) は、帝国内での再興が最早甚だ困難という現実に直面し、Nederlanden 連邦共和国への亡命を目指して、1621 年の 3 月にそこに到着する。

 それに先立つ 2 月 6 日には、プロテスタント同盟の代表者達が Heilbronn に集まって、Ferdinand II. が選帝侯 Friedrich V. を帝国平和喪失刑に処した事に対して非難を表明し、その取り消しを求めた。しかし Ferdinand II. はこれを拒否し、未だ当時 Pfalz に駐留していた Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる皇帝軍の勢力によって彼等を威嚇し、逆にプロテスタント軍の解体を命令した。

 これによってプロテスタント側諸侯による抗議は崩壊し、4 月 1 日にはプロテスタント同盟の代表によって、Pfalz に駐留する Ambrosio Spinola がこれ以降彼等の中立な立場を保証するならば、プロテスタント軍の解体に従うという宣言が行われた。
この所謂 „Mainzer Akkord” (Mainz の合意) がプロテスタント同盟によって署名された最後の文書となり、同盟はこの年の 4 月 24 日に同じく Heilbronn で行われた会議に於いて、正式に解散する事となった。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 27«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr.5]
へ続く

 

 


上部の写真:


Ferdinands II. によって
Friedrich V. に
帝国平和喪失刑が処された証書

これによって Friedrich V. は
世襲領地、選帝侯の身分、平安と帝国民の権利を失う


1621 年 1 月 29 日付

 

 

 

 

 

 

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