Memorandum 2016 Nr. 5

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 27

 

 


選帝侯 (第27回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 26«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 4]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 1621 年 4 月 1 日の „Mainzer Akkord” (Mainz の合意) によってプロテスタント軍は解体され、同年 4 月 24 日に Heilbronn に於いて開かれた会議によって、プロテスタント同盟は正式に解散する事となった。
これによってプロテスタント側やまた反 Habsburg 家の立場にあった諸国が危惧していた様に、Los Balbases 侯爵 Ambrosio Spinola Doria (1569-1630) の率いる皇帝側 España 王国の軍隊が、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の世襲領地である、Pfalz に進攻するのを最早誰も阻む事が出来ないという状況に陥った。

 一方帝国平和喪失刑に処されている前 Bohemia 国王の Pfalz 選帝侯 Friedrich V. が、帝国からの亡命先に選んだ Nederlanden 連邦共和国は、1568 年以来 España 王国からの独立を目指した、所謂 80 年戦争を戦っている状態にあった。
Friedrich V. が Nederlanden 連邦共和国に到着した時は未だ、1609 年に España 王国との間に締結された 12 年間に亘る休戦期間中ではあったが、これは Friedrich V. 到着の翌月、1621 年 4 月 9 日に期間満了となった。

 その直後の 4 月 14 日に Friedrich V. はその妃で同じく亡命を余儀なくされていた、Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) の長女、Elisabeth Stuart (1596-1662) に Den Haag に於いて合流し、そこで両者は共和国から君主に相応しい待遇を受けて歓迎されている。
その時 Friedrich V. と Nederlanden 連邦共和国の間には、Friedrich V. が Pfalz の世襲領地を奪還する為に、Nederlanden 連邦共和国が軍事支援行うという協定が締結された。
Praha 郊外の Bílá hora (白い山) の戦いに於ける、Friedrich V. の決定的敗北及びその帝国外への亡命によって、この戦いにはけりが付けられたという考えは、ここで裏切られる事になる。

 1619 年に Friedrich V. が Bohemia 国王に即位する為に Pfalz 伯爵領を発って以来、その行政監理官を務めていた Pfalz-Zweibrücken 公爵 Johann II. (1584-1635) は、1621 年の夏にその地位を辞任する。
Friedrich V. はその後 Nederlanden から Calais を経由して Paris に移っていたが、Pfalz の情勢を常に細かく伺おうとしていた Friedrich V. にとって、その地理関係が直接的把握を困難にしていたために、Friedrich V. に雇われた傭兵隊長の Mansfeld 伯爵 Peter Ernst II. (1580-1626) が未だ守り続けていた南 Pfalz を目指して移動し、1622 年 4 月 21 日にそこで彼の軍隊と合流し、同時にプロテスタント派諸侯には今一度支援を求めて、1 年前に解体していたプロテスタント同盟の再興を目指した。

 その直後の 4 月 27 日に Bad Mingolsheim (現在の Bad Schönborn, Baden-Württemberg) 南側の Ohrenberg に於いて、Mansfeld 伯爵の率いる Friedrich V. 側の軍隊と、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いるカトリック連盟軍との戦いが行われた。

 この戦いでは Tilly 伯爵自身も負傷し、Mansfeld 伯爵は勝利を収める事が出来て、Pfalz 側では異様に士気が高まるという結果になったが、Pfalz にはその軍隊を保つ為の資金と食料が決定的に不足していた。
また Pfalz 軍の応援に駆け付けようとしたプロテスタント側の Baden-Durlach 辺境伯 Georg Friedrich (1573-1638) の率いる軍隊は、同年 5 月 6 日の Bad Wimpfen の戦いに於いて、また当時反皇帝派及び反カトリック連盟の名将として非常に名高かった Braunschweig-Lüneburg 公爵 Christian (1599-1626) の軍隊は、同年 6 月 20 日の Höchst の戦いに於いてそれぞれ敗北し、これを転機に情勢は方向を変える事となった。

 こういう状況の下 Friedrich V. が頼りとしていた Mansfeld 伯爵の影響から、Friedrich V. はこれ以後益々逃れらなくなるが、Mansfeld 伯爵はあくまで傭兵隊長であって、Friedrich V. やプロテスタント派諸侯の信条等には全く関心を持っておらず、また Pfalz の行政管理組織も負担過重状態になっており、雇い入れた Mansfeld 伯爵とその軍隊を十分に管理する事が出来ないという状態にあった。
そういう状況の下 Mansfeld 伯爵はその後 Darmstadt の町を襲い、皇帝への忠誠で知られていた Hessen-Darmstadt 方伯 Ludwig V. (1577-1626) とその息子の Johann (1609–1651) を人質に取ったり、その年だけでも Langen、Nauheim、Ober-Ramstadt、Nieder-Modau、Neunkirchen、Weiterstadt、Raunheim、Rüsselsheim、Büttelborn、Nidda、Bingenheim 及び Fulda 修道院の所領に属する Echzell や Berstadt 等、相当多数の町を襲撃するという遠慮会釈の無い行動が続いた。

 Friedrich V. はその間 Pfalz 世襲領地を守り抜く事が最早不可能だと察知すると、1622 年 6 月 18 日に選帝侯に関わる重要書類や貴重品等を回収する為に、今一度宮廷及び居城のある Heidelberg に戻り、その後 7 月に Mansfeld 伯爵とその軍隊を解雇する。
Friedrich V. はその年の夏を、伯父に当たる Bouillon 公爵 Henri de La Tour d’Auvergne (1555-1623) の下に赴き、その領地である Sedan (現在は Luxembourg 大公国との国境間際の France 共和国の町) に行って過ごした。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 28«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 6]
へ続く

 

 


上部の写真:


Heidelberg


出版業にも従事した銅版画作家
Matthäus Merian der Ältere (1593-1650)
による
銅版画

1620 年制作

 

 

 

 

 

 

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