Memorandum 2016 Nr. 7

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 29

 

 


選帝侯 (第29回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 28«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 6]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 カトリック連盟軍を率いる Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632)、及び Maratra 侯爵 Gonzalo Fernández de Córdoba (1585-1635) の指揮する皇帝側 España 王国軍によって、Heidelberg を始めとする Pfalz 領が 1622 年に占領されたのに続いて、翌 1623 年には 2 月 23 日に Regensburg に於いて開催された帝国代表団による会議の場で、皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) によってそれ迄 Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の保持していた選帝侯の位階が、 Bayern 公爵 Maximilian I. (1573-1651) に移譲されるという事になった。

 この移譲された選帝侯位に関しては、帝国内のプロテスタント諸侯への唯一の譲歩として、Maximilian I. の在命期間中に限るとされたが、本来この種の決定を行う権利は皇帝では無く選帝侯会議が持っており、今回の皇帝一人による決定は法の規定に反する前例の無い行為となった。
この選帝侯位に加えて Maximilian I. は、Friedrich V. の世襲領地の上部 Pfalz を封土として手に入れ、又それ以外の Pfalz 領に属していた Parkstein, Peilstein と Weiden は、Pfalz-Neuburg 公爵 Wolfgang Wilhelm (1578-1653) に割譲された。

 1620 年 11 月 8 日の Bílá hora (白い山) の戦いに於ける敗北の後、翌日に Praha の宮廷を脱出して以来 Friedrich V. は、亡命の日々を送る事を余儀なくされていたが、Pfalz 世襲領地が完全に征服されて、居城のある Haidelberg への帰還の望みが全く無くなってしまった 1622 年の年末から翌年への年越しの時期に、Nederlanden 連邦共和国の首都 Den Haag に於いて亡命政府を樹立し、Praha 以来の亡命生活を共に過ごして来た Ludwig Camerarius (1573-1651) にその長官職を委ねる。

 Friedrich V. は Den Haag の亡命政府に於いて、日常の政治的な業務は顧問官及び助言者達に任せ、財政上の問題に関してのみ一種の硬骨さを以て処理したが、特に Friedrich V. の管理下にある財政上の采配等に関しては、とてもしみったれた決定を下した。

 しかしその一方では、例えば 1629 年から Utrecht の Rhenen で新しい宮殿の建築を始めさせたが、1631 年の夏に完成したその宮殿は、中庭を囲む 2 階建ての主屋と、南側へ張り出している 2 つの側翼からなり、それを大きな庭園が取り囲むという十分豪華なものだったという様に、Friedrich V. の宮廷に於ける態度は、当時 Nederlanden 連邦共和国政府及び英国政府から受けていた援助金の範囲では中々収まりきらない程、巨額な金銭を貪るという様なものであった。
英国政府からの圧力に加えて、世襲領地を完全に失った事が重なり、広範囲に亘って最早全くの無能力状態に陥った Friedrich V. は、毎日を狩りや長時間の散歩、また泳ぐ等して無為に過ごしていた。

 1629 年 1 月 17 日に、Nederlanden 連邦共和国の西インド会社による、Spain や Portugal 船に対する私掠船活動からの捕獲物を見物する為に、北 Holland の Haarlemmermeer を訪れていた Friedrich V. はそこでの見物中に船の事故に遭い、自身は回復に 1 年以上を要したという重傷を負った上に、彼の長男で爵位後継者であった当時 15 歳の、Heinrich Friedrich von der Pfalz (1614-1629) を失うという不幸に見舞われる。

 Heinrich Friedrich は既にその頃、Europe 各国の外交官による様々な計略に於いて重要な役割を演じるという程、その優れた知性で世間の注目を集めており、Friedrich V. は彼に今後の家の再興という大きな望みを託していたただけに、それを克服する事はその後の生涯に亘って出来なかったという程その悲嘆は大きかった。
Friedrich V. の義父に当たる Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) も、カトリックの Spain 王国の王女と Heinrich Friedrich の婚姻によって、Pfalz を巡る問題を平和裏に解決しようと考えていたが、それも最早叶わぬ事となった。

 これに先立つ 1625 年 12 月 19 日に、Den Haag に於いて Denmark 王国、England 王国、Nederlanden 連邦共和国、及び帝国内のプロテスタント派諸侯の何人かが加わって、反 Habsburg 家を標榜する同盟が結成された。
この同盟は France 国王 Louis XIII. (1601-1643、国王在位 1610-) の支援を受けた、Den Haag の Friedrich V. の Pfalz 亡命政府の主導によって結ばれた。
Friedrich V. はこの同盟が結成される以前、反 Habsburg 家の大連合によって、占領されて失われた Pfalz の領地を軍事力によって奪還する事を願っていた。しかし 1625 年に実際に結成されたこの同盟の第一の軍事目的は北部ドイツに集中されており、既に England 王国と Nederlanden 連邦共和国は、Denmark 及び Norway 国王 Christian IV. (1577-1648) の開始した、皇帝に対する出兵への支援を宣言していた。

 この同盟によって実際には、幾らかの金銭的支援と、Spain 王国との武器取引を阻止する為の Hamburg の封鎖を除くと、Denmark 王国と他の同盟国間に最終的には大した協力関係が見出される事は無かった。
Nederlanden 連邦共和国は、1621 年の停戦の終了後再開された Spain に対する 80 年戦争の最中で、1624 年から翌年に掛けて Breda への Spain 軍の侵攻を受けてそれへの攻防で手一杯であったし、また England に於いては国王と議会の対立が起こって内政的に麻痺状態に陥ってしまい、同様に他国の支援が出来るような状態では無くなった。
また 1626 年 8 月 27 日の Lutter の戦いに於いて Denmark 王国の軍隊は、Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes の率いる カトリック連盟軍に対して惨敗を喫する。

 1627 年には嘗てこの同盟を支援していた France 王国に対して、England 王国が戦争を開始するという事になり、全く効果の上がらないこの同盟は必然的に決裂を迎える事になる。
1629 年に Denmark 王国は Lübeck の和平によって、Europe 中を巻き込んだ戦争から抜け、又翌年 England 王国は Spain 王国との間に和平を結び、全ての Europe 大陸に於ける軍事行動から手を引いた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 30«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 8]
へ続く

 

 


上部の写真:


Friedrich V. が
亡命中に Rhenen に於いて建設させた宮殿

後ろに見える塔は
Rhenen の象徴となっている Cunera 教会の塔


Den Haag の建築家で画家の
Bartholomeus van Bassen (ca. 1590-1652)
の設計による

1631 年完成

 

 

 

 

 

 

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