Memorandum 2016 Nr. 8

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 30

 

 


選帝侯 (第30回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 29«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 7]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 反 Habsburg 家を標榜する大連合の結成によって、今や全域が占領されて失われてしまった Pfalz の世襲領地を軍事力を以て奪還する事を願っていた、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) の主導によって、France 国王 Louis XIII. (1601-1643) の支援を受けて 1625 年に、Denmark 王国、England 王国、Nederlanden 連邦共和国、及び帝国内のプロテスタント派諸侯によって Den Haag に於いて結成された同盟は、全く何の成果や希望ももたらさないまま 2 年という短期で決裂してしまう。

 丁度その頃の 1624 年から翌年に掛けてと 1627 年には、Friedrich V. と皇帝 Ferdinand II. (1578-1637) の間を取り持つ試みも行われていた。
それ等の交渉に於いて Ferdinand II. は、Friedrich V. に対してしかるべき敬意と従順な態度を示しはしたものの、Friedrich V. への領地の返還と Pfalz 選帝侯としての完全な尊厳の回復に関しては一歩も譲る事は無く、これ等の交渉は全て失敗に終わった。

 その後 1630 年 7 月 3 日から 11 月 12 日迄の期間、Regensburg に於いて開催された選帝侯会議では、Friedrich V. が Ferdinand II. に対して、1619 年に Bohemia 国王位を受諾した事を書面で以て謝罪している。しかしその時に Regensburg にやって来た Friedrich V. の使者との協議に於いても、彼の為に何の成果をももたらす事は出来なかった。

 1631 年 3 月末に、Friedrich V. の義弟に当たる England、Schottland 及び Irland 国王 Charles I. (1600-1649) が、Friedrich V. の利益の為に皇帝を譲歩へ導こうと今一度の試みを行う。
帝国宮廷顧問官会議議長 Fürstenberg zu Meßkirch Wildenstein 伯爵 Wratislav II. (1600-1642) との協議の為に、Charles I. は大使 Sir Robert Anstruther (ca. 1578-1645) を Wien に派遣するが、その後の Anstruther の尽力も翌年の Friedrich V. の死によって無に帰する事になる。

 Friedrich V. は当初自分が主導して Den Haag に於いて結成された反 Habsburg 家の同盟によって、完全に失われてしまった Pfalz の選帝侯国を軍事力で以て取り返し再興する事を願っていたが、1626 年 8 月 27 日の Lutter の戦いに於いて、Denmark 王国の軍隊が Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes (1559-1632) の率いる カトリック連盟軍に対して惨敗を喫した事によって、その希望も潰えた。
この同盟は Friedrich V. に何の利益ももたらす事は出来なかったばかりでは無く、逆にカトリックとプロテスタントの間で始まっていた宗教戦争が、全 Europe 中に広がるきっかけとなった。

 1630 年 7 月 4 日に Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) の率いる軍隊が Balt 海を渡って、ドイツで 2 番目に大きい Usedom 島に上陸して、Europe の宗教対立の戦争に介入するという行動に出たが、これによって Friedrich V. にとっては新たなとても希望の持てる状況が出来した。
翌 1631 年の 9 月 17 日に Leipzig のすぐ北に位置する Breitenfeld と Seehausen (現在は両者共に Leipzig の市域内) の間に於いて、Gustav II. Adolf の軍隊と Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes の率いる皇帝軍が出会い、戦いとなった。
この戦いで Tilly 伯爵の軍は Gustav II. Adolf の軍隊に惨敗を喫し、この後翌年迄続く事になる Sweden 王国軍の Bayern 王国を目指した南独地方への進軍を、皇帝軍は抑える事が出来なくなってしまう。

 Gustav II. Adolf の軍隊は 1631 年 12 月に、上部 Rhein 地方の Oppenheim で Rhein 河を渡ってその町を占領したが、それは Friedrich V. にとって、同じく Rhein 地方にある自分の嘗ての領地に戻れるという徴に思えた。
そこで Friedrich V. は翌年 1 月になると、近い内に Heidelberg に再び居城を構える事が出来る様になるという固い確信の下、Den Haag に居る家族に別れを告げて Frankfurt am Main へと向かう。

 1632 年 2 月に Frankfurt am Main に於いて、Friedrich V. は勝利を続けて進軍する Sweden 国王 Gustav II. Adolf に会い、プロテスタント諸侯からは悪意に解釈されてしまったが、一人の国家君主として大変丁重に歓待された。
Friedrich V. はしかし以前に London やまた Den Haag に於いて、何度も援助を求めた折に受け入れて貰えなかったという経緯があるので、Gustav II. Adolf を直接幇助する如何なる手段も提供する事は出来ないと考えていたが、逆に Friedrich V. を助けるという名目で、彼を英国の利益の為に利用するという様な試みがその場では行われた。
Frankfurt am Main に来ていた英国公使は、嘗ての Pfalz 選帝侯国領を Friedrich V. に対する保証物件として手に入れてしまう事を Gustav II. Adolf に提案したが、Friedrich V. はその様な取引には決して応じる事が出来ないとして、それを条件としての彼が以前持っていた権利の回復は放棄した。

 このような状況下で Friedrich V. は止むを得ず、Gustav II. Adolf の Bayern 王国を目指した更なる進軍に同行する事となり、1632 年 5 月 17 日に München に到着する。
München に於いても再度 Friedrich V. の権利回復の為の交渉が行われたが、余り成果は上がらずに只人々から騒がれるだけであった。
対 Habsburg の戦争で勝利を収め続ける Gustav II. Adolf にとっては、Friedrich V. の権利回復に関して今迄と同様に今後も、交渉に応じるのでは無く、自分が決定を下せる立場にあると考えていた。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 31«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 1]
へ続く

 

 


上部の写真:


1631 年 9 月 17 日に
Leipzig の北部の
Breitenfeld の郊外で行われた
Sweden 国王 Gustav II. Adolf の率いる軍隊と
Tilly 伯爵 Johann T’Serclaes の率いる皇帝軍との
戦い

 

 

 

 

 

 

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