Memorandum 2017 Nr. 1

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 31

 

 


選帝侯 (第31回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 30«
[Archiv / Memorandum 2016 Nr. 8]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Habsburg 家に対する戦争で勝利を続ける Sweden 国王 Gustav II. Adolf (1594-1632) は、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) にとって対等な立場での交渉が出来る相手では無く、Friedrich V. の世襲領地及び自身の身分回復の為の条件を問い質したその質問への Gustav II. Adolf の回答は、Friedrich V. にとって完全に打ちのめされる様なものであった。
Friedrich V. にとって残された領地回復の可能性は、Gustav II. Adolf に忠誠を誓って、Pfalz の土地を Sweden 国王から封土として授けてもらうしかないという様な状況であった。

 Gustav II. Adolf が容易に Pfalz の地を Friedrich V. に与えようとしなかったのには、その土地が Sweden 王国にとって経済上と同時に、その後の戦略上という点でも大変重要であったという理由があった。
身分回復の為の条件を少しでも軽減して貰おうという Friedrich V. の懇願に対する Gustav II. Adolf の態度は、友好的なものではあったが、その願いそのものに対しては断固として拒否した。

 こういう様な訳で München に於ける交渉が Friedrich V. にとって何らかの成果を全く上げる事無く両者は別れて、Friedrich V. は既に Sweden 軍に占領されている Mainz に向かい、1632 年 10 月にそこに到着する。
同年 11 月 16 日に Gustav II. Adolf は、Leipzig の南西の Lützen 近郊で行われた、自身が率いる Sweden 軍を中心とするプロテスタント側の軍隊と、Friedland 公爵 Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein (1583-1634、通称 Wallenstein) の率いるカトリック側皇帝軍との戦いに於いて戦死する。
丁度その同じ時期に England 王国は Friedrich V. の為に、規模が大きくは無いが十分な資金を備えた兵力を大陸に送る準備をするという決定を漸く下す。

 しかし Friedrich V. が長く渇望していたこの決定も、彼を助ける事にはならなかった。
彼は 10 月の初め頃から感染を患い、症状はその後ひどくなる一方であった。彼が Darmstadt から Mainz にまで呼び寄せた、Heidelberg 大学の医学部教授で諸侯達の侍医もしていた Peter de Spina III. (1592-1655) でも、何らかの治療でこれを改善する事は出来なかった。
その年の 11 月 29 日に Friedrich V. は、恐らく Pest が原因の悪疫性発熱により死亡する。

 Friedrich V. の子息の内、長男の Heinrich Friedrich von der Pfalz (1614-1629) は、1629 年に事故で無くなっていたので、次男の Karl I. Ludwig von der Pfalz (1617-1680) が家督を継ぐ立場にあったが、彼はこの時点で未だ未成年であった為に、Friedrich V. の弟の Ludwig Philipp von Pfalz-Simmern (1602-1655) に、Pfalz 選帝侯国の行政管理及び Karl I. Ludwig の後見が託された。

 亡くなった Friedrich V. の内臓は遺体から取り出されて、Mainz 近郊の Oppenheim にある Katharina 教会の内陣西側に埋葬された。
防腐処理の施された Friedrich V. の亡骸は、先ず Frankenthal の要塞に運ばれた。

 それから暫くして 1635 年 6 月 9 日になると、Frankenthal に改めて迫り来る皇帝側の España 王国軍から逃れる為に、Ludwig Philipp は Friedrich V. の亡骸と共に Kaiserslautern へ脱出する。
更に同年 7 月に彼等の一行は France 王国領の Metz に到着する。

 Frankenthal では Friedrich V. の亡骸が何日間も野外に晒される事があり、また Metz に至る逃避行の最中には何度も馬車から落ちたという。
Metz でそれは民家の地下倉庫に置かれた。
1637 年 9 月に Ludwig Philipp は Metz の北西約 110 km にある、同じく France 領でより安全な Sedan に Friedrich V. の亡骸を移したと伝えられているが、現在それが何処にあるのかは分かっていない。

 Friedrich V. の残した子女達には、彼の後継者となり、プロテスタントに属する Calvin 派の信仰を貫き、後に父親の Pfalz 選帝侯位を受け継ぐ事になる次男の Karl I. Ludwig の他に、Cumberland 公爵及び Holderness 伯爵、また England 全軍の大元帥となった 3 男 Ruprecht von der Pfalz (1619-1682)、England の軍人となった四男 Moritz von der Pfalz (1621-1652)、カトリックの信仰に進み Herford の女子修道院長になった長女 Elisabeth von der Pfalz (1618–1680)、同じく France の Maubuisson 女子修道院長になった次女 Luise Hollandine von der Pfalz (1622-1709)、Nevers 及び Rethel 公爵 Carlo I. Gonzaga (1580-1637、1630- Mantova 公爵) の 3 女 Anna Gonzaga (1616–1684) と結婚した 5 男 Eduard von der Pfalz (1625-1663)、Braunschweig-Lüneburg 選帝侯妃となり、また現在の英国王室に繋がる England 国王 Georg I. (1660-1727) を生んだ 5 女 Sophie von der Pfalz (1630-1714) 等、Friedrich V. とその妃 Elisabeth Stuart (1596-1662) [Scotland 国王 James VI. 及び England と Irland 国王 James I. (1566-1625) の長女] との間には、その後の歴史上重要な役目を担う事になる人物を含む、合計 13 人の子供達が生まれている。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 32«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 2]
へ続く

 

 


上部の写真:


Friedrich V. の
内臓が埋葬された
Mainz 近郊 Oppenheim の
Katharina 教会

 

 

 

 

 

 

Bemerkungen sind geschlossen.