Memorandum 2017 Nr. 2

 

 

 


Über Österreich und Wien

 

 


Kurfürst

 


Teil 32

 

 


選帝侯 (第32回)

 

 

 

 

 

 

 


»Kurfürst Teil 31«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 1]
より続く

 


Kurfürst とは
神聖 Roma 帝国に於いて 13 世紀以降
Roma ドイツ王を選出する独占的権利を認められた
人数の限定された帝国の有力諸侯団。
この Roma ドイツ王位は
神聖 Roma 帝国皇帝位と密接に結び付いている為に
実質的には神聖 Roma 帝国皇帝が
選帝諸侯団に選出されるという意味になる。

 

 Mainz の金細工師 Johannes Gutenberg (ca. 1400-1468) によって 1440 年代に考案され、これに続く次の Renaissance 時代移行への引き金の一つになったとも考えられている、可動式金属活字による活版印刷とそれを用いた印刷機械の発明によって、それ以降ちらしの形式による情報や意見見解の大量頒布が可能となった。
その史上最初の隆盛が、Pfalz 選帝侯 Friedrich V. (1596-1632) に関わる社会的出来事に伴って起こった。

 この種の印刷物は 1517 年に Martin Luther (1483-1546) によって Wittenberg の宮殿教会の扉に、学術論争の形式による 「95 の Thesen」 を掲示した事に始まる宗教改革以来、その内容を分かりやすく説明する散文や韻文を伴った絵によるちらしが先ずは木版画によって、後にはそれが次第に銅版画や食刻版画によって作製されて流通するという事から始まった。
この様な印刷物は、この時から始まったとされる宗教改革の延長にある、次の世紀の 30 年戦争中にも盛んに作られて配布されたが、特に Luther 派によるプロテスタントの帝国都市が集まり、また同時に Gutenberg による新しい印刷の中心地ともなっていた、ドイツ南部に於いて多くが作製された。

 これ等の印刷物は部分的には、そこで表現されている出来事や人物に関してそれが事実では無かったり、また一方的な見解という事が多々あるにしても、30 年戦争中の社会の具体的な様相を、絵と共に現在に迄伝える重要な歴史的資料となっている。
プロテスタントの Calvin 派を信仰していた Friedrich V. に関しては、Praha 郊外の Bílá hora (白い山) に於ける戦いが行われた 1620 年以降 1622 年に掛けて、実に様々な大量のちらしが作られて配布されている。

 そもそも Friedrich V. は、1613 年 2 月 14 日に London に於いて異例に盛大な挙式が行われた、Scotland 及び England と Irland の国王 James I. (1566-1625、Scotland 国王としては James VI.) の 長女、Elisabeth Stuart (1596-1662) との結婚以来、当時の人々の注目を集める存在とはなっていた。

 特に 1619 年の彼による Bohemia 王位の受諾以降は、世間の関心の中心人物となり、30 年戦争の期間中に配布されたちらしによる印刷物では、最も話題に採り上げられた人物となり、その主なものとして Friedrich V. の人物像や、彼の Bohemia 王位受諾に対する決定を扱ったものに限っても、凡そ 200 のちらしが残されている。
それ等以外にも彼を扱ったこれ等の印刷物の内容は、法律上や神学上の論考、Bílá hora の戦いでの敗戦以降に発見された Pfalz 政庁による書類や記録、また更には教養ある人々を対象にした判じ絵、迷路や Chronogramm (年号表示銘) を取り入れて、読者に対して著者の意図を解き明かすという課題とその楽しみを狙ったもの等に至る迄、非常に幅広いものが残されている。

 Friedrich V. が 1619 年 11 月 4 日に Bohemia 国王に即位してすぐに、Friedrich V. 及びプロテスタント派に対抗するカトリックの皇帝派によって作成されたちらしの中で、その在位期間が出来るだけ短くなる様にという意味を込めて、Winterkönig (冬の王) という蔑称が用いられる様になった。
これに対する Friedrich V. を擁護する立場から、Pfalz のプロテスタント派による印刷物では、Winterlöwe (冬の Lion) という言葉が、また冬が終わると Sommerlöwe (夏の Lion) という呼び名が、この Winterkönig に対抗して用いられている。
僅かに 1 年と 4 日ばかりの在位期間の後、Bílá hora での完膚無き迄の敗戦によって、それ以降生涯に亘って亡命生活を余儀無くされた Friedrich V. を、その後この Winterkönig という蔑称と共に蔑み嘲弄する数多くの印刷物が作られている。

 Bílá hora の戦いに至る迄の期間に発行された印刷物の殆ど 9 割は、プロテスタント側によって配布されたもので、Pfalz による出版の重要な課題は、 Friedrich V. による統治政府の正統性と合法性を訴える事にあり、これ等は独語、Czech 語と仏語によって同時に発行された。
彼らのこの主張に対する根拠として利用されたのは聖書に用いられている言葉で、そこでは Friedrich V. が福音の守護者であり、旧約聖書中の Gideon か或いは Judaと Israel の王であった、David の後継者として表現されている。

 これに対するこの時期のカトリック側の出版宣伝活動には、Jesus 会士によって Winterkönig という蔑称が考え出された以外には、当初は特に目に付くものは無かった。
しかし Friedrich V. の Bílá hora の敗走以降その様子は大きく変わり、カトリック側は勝利への喜びと復讐心に凝り固まる。その後捕獲された Friedrich V. による政庁の文書は、その後何年にも亘ってちらしによって公開され、逃走を続ける Friedrich V. とその家族は、益々数多くの風刺画や詩によって嘲笑された。

 これ等の同時代人の一般的な見方に対して Friedrich V. とその候妃は、常に自分達を信仰心の強さと名誉心の為の犠牲になっていると捉えていた。
Friedrich V. は自分の行動が、その後の長く悲惨な戦争や混乱の原因となって、帝国の平和を乱したと考えた記録は残されておらず、彼自身は世襲領地と自分自身が、プロテスタントの権利や帝国諸侯の自由と、Habsburg 家の更に強まる覇権に対して、帝国憲法を守る為の戦いの犠牲になったと考えていた。
彼の没後にこれ等の考えを Elisabeth Stuart は、自己の信念の為に財産と自身を犠牲にした、古代 Roma の英雄の美徳を持った Roma 帝国皇帝になぞらえて、Friedrich V. を描いた絵画によって後世に伝え様とした。

 

 


この先は次回
»Kurfürst Teil 33«
[Archiv / Memorandum 2017 Nr. 3]
へ続く

 

 


上部の写真:


「Pfaltz 伯爵の幸福と不幸」
と題する
Friedrich V. を風刺する銅版画


Roma 神話の運命の女神
Fortuna の
「運命の輪」
に乗る Friedrich V. が描かれている

1621 年制作

 

 

 

 

 

 

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